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ガルガのクチーナ・エスプレッサ00ガルガ伝説、ある伊達男とある善良な男の物語(無料配信)

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ルネッサンスが華開き、その五百年前当時の街並をほぼ維持しているフィレンツェには、古くからのレストランが結構残っている。数百年とまではいかないが、二百年、百年の歴史を誇る店も少なくない。それら老舗レストランでは、伝統的なトスカーナ料理を出し、伝統料理を頑に愛する地元民やせっかく古都に来たのだからと伝統料理を所望する旅行者で大概繁盛している。それが、伝統料理を守り後世に伝える結果につながっていることは間違いない。

伝統こそ良し、の風潮があるフィレンツェ料理店のなかで、一風変わった料理で知られる店がある。「トラットリア・ガルガ」。サンタ・マリア・ノヴェッラ広場からほど近い路地に佇むこの店が標榜するのは、クチーナ・エスプレッサだ。エスプレッサとは、“すぐできる”という意味で、作り置きをせず、注文が入る都度、さっと料理して供す。しかし、単なるスピード・クッキングではない。ただ早いだけなら、こうも夜ごと賑わうはずがない。どうしてこんなに人気があるのか、それを説明するためには、この店をめぐる2人の男について、話をしなければならない。

1人目の男 ジュリアーノ・ガルガーノ

伊達男、という言葉がある。由来は諸説あるようだが、要は洒落者を指す言葉で、イタリアの伊の字が使われているからというわけではないだろうが、イタリアにはその伊達男とやらが多い。派手で、気取っていて、見られることが大好きな伊達男。でも、伊達男には“男気がある”という意味が含まれているとしたら、ほんとうの伊達男はイタリアにもそうはいない。どんなに洒落ていたって、男から尊敬の念をもって好かれなければ、本物の伊達男とは言えない。

ジュリアーノ・ガルガーノ。フィレンツェのトラットリア「ガルガ」の創業者で、アーティストで、花を愛する男。言葉にすると気障としか思えないような人物だが、彼は実際、正真正銘の伊達男である。何もいつもクラシコ・イタリアのスーツを着こなしているわけではない。そればかりか、スーツなど着たことはない。バンダナを首に巻き、絵の具のついたシャツを着て、一見竹刀のような手作りの杖をついている。しかし、それがなんとも格好良く、いかにもおかまいなしといった風情がまたよく似合う。

ジュリアーノは声が大きい。歳をとって耳が遠くなったからだ(2010年現在で72歳)と人々は言うが、ジュリアーノの声は最近大きくなったというものではない。腹式呼吸と体のすみずみまで反響させる発声法は、生まれついてのものだ。その大きな声で、「アスコルタ(聞け)!」と言われれば、誰しもが立ち止まり、手を休めて、いったい何を言うんだろうと固唾をのんで待ち構える。そして、ジュリアーノはとうとうと語り出す。料理についてだったり、人生についてだったり、内容はさまざまだが、聞かずにはいられない妙な説得力がある。言葉のわからない外国人にも平気でイタリア語で語りかける。細かいことはわからなくても、どこか一部、何か大切ものだけが伝わるようだから不思議だ。

ジュリアーノ・ガルガーノは、1938年フィレンツェに生まれた。父はレンガ積職人だったが、ファシズムの嵐吹き荒れた時代に困窮し、母が働きに出て一家はなんとかやっていけるという具合だった。10歳の頃、ジュリアーノは肉屋の小僧として働き始める。親方が捌く肉をレストランやホテル、個人の家に届けるのが主な仕事だった。ジュリアーノは言う。

当時は、彼らがマエストロだった。肉屋の親方について、肉がなんたるかを知り、料理人の仕事を見て、料理とはなんであるかを知った

ジュリアーノには、芸術に対する並々ならぬ関心もあった。絵筆を持ち、思うがままに描いた。やがて、12年働いた肉屋の奉公を上がり、革細工の工房で働くようになる。カナダから長期旅行にきていた女性と恋に落ち、結婚。アトリエと称していた部屋に2人で暮らし始めた。生活のために革細工の仕事は続けていた。が、ある時、少年の頃に働いた肉屋の主人が引退するという知らせを受ける。渋る妻を説き伏せ、借金をしてその店を買い取った。

「肉屋は芸術家であり、大理石の台に並んださまざまな肉は、作品である」

そう語るジュリアーノは優れた肉屋であった。75年に引き継いだ肉屋の顧客を1人も失わないばかりか、いっそう増えた。ところがある日、最古参の顧客であり、すぐ近くで小さな料理店を営む老人から、その店を買わないかと持ちかけられた。優れた肉屋であるばかりでなく、優れた料理人であるとの自負があったジュリアーノと、料理好きの妻は、その料理店を買うことにした。79年のことである。

「なぜ自分は優れた肉屋であり、優れた料理人なのか。それは、愛があるからだ」

ジュリアーノは胸をはってこう語る。当時、フィレンツェの料理店で出していたのは、ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナや煮込み料理など、いわゆる伝統料理ばかりだった。(今も、それは変わらない。)しかし、料理に人一倍愛情を注ぐジュリアーノにとって、それは至って平凡で物足りない現象だった。自分の味をクリエイトすることに無上の喜びを感じるジュリアーノは、もっとじっくりと研究を重ね、料理はアーティスティックであるべきだと思ったのである。

アーティスティックとは、見た目のプレゼンテーションだけではない。味もこれまでにない新しさを備えていなければならない。肉屋として肉を知り尽くしていたジュリアーノは、肉のみならずあらゆる素材にその素材だけが持つ味があると考えた。その本質的な味を引き出すことに専心し、試行錯誤を繰り返すうちに、素材にはそれぞれ、必要十分な加熱というものが存在するという結論を導き出した。

強い火力で短時間加熱することによって、生にはない旨さを引き出す。長時間加熱が主流だった当時、それは非常に突飛な発想だった。同じ80年代にヌオヴァ・クチーナ・イタリアーナ(新イタリア料理)を掲げ、一躍有名になったグアルティエロ・マルケージを真似ているだけだと言われることもあった。しかし、何人ものスタッフを抱え、分担して手間ひまをかけるマルケージとは違い、ガルガの料理は、ジュリアーノと妻の2人で作る、あくまでも家庭料理の延長線にあった。

即できる。翌日に持ち越すものはない。素材はいつも新鮮。それがガルガ方式だ。もちろん、ことことと煮込んだミネストラや、じっくりとローストした肉の美味しさも知っていた。その上で、新しい味の世界を世に送り出したかったのだ。果たして、それは次第に支持を得、フィオレンティーナ(フィレンツェ人)が、ガルガの料理をこれもまたフィレンツェ料理であると認めたのである。

「素材がフィレンツェ人になじみのあるものだったからだろう」

ジュリアーノはこう分析する。しかし、当時は誰も使わなかったルーコラ、アヴォカド、ボッタルガ(からすみ)などを積極的に取り入れ、それらは今、ガルガ料理になくてはならない素材となっている。やはり、美味しいから、ということにほかならないのではないか。さらに、ガルガ人気は、美味しいだけでなく、その店が醸し出す雰囲気に由るところも大きい。

ガルガは89年により広い場所に移転した。それまでの店とは10mも離れていない近場である。店は移っても、本質的には変わらなかった。否、一層パワーアップしたといっていい。ジュリアーノが描く壁一面のシュールな絵。ジュリアーノを慕って集まる友人の画家や彫刻家。他の店とは違う自由な雰囲気は、外国人も呼び寄せる。特に映画界やファッション界の人々が入れ替わり立ち替わり訪れ、噂が噂を呼び、ついにガルガのパスタ料理がアメリカの雑誌GQで世界の十大料理に選ばれるまでになった。

料理店主であり、料理人であり、芸術家であったジュリアーノは、フィレンツェをこよなく愛していた。だから、アルノ川の川岸の一角に“庭”を作り、バラを植えた。愛するフィレンツェをより美しくしたい、見る人に喜んでもらいたいという純粋な気持ちだった。しかし、フィレンツェ市の市有地であるところに無断で個人が庭を作ることは許されない。市からの警告や強制撤去をものともせず、何度も庭を作り直した。それは新聞記事にもなり、単なる料理人にとどまらない有名人として、フィレンツェでジュリアーノを知らぬものはない。

これが、uomo bello、伊達男ジュリアーノ・ガルガーノの物語である。

もう1人の男、エリオ・コッツァ

イタリア人の行動を観察していると、彼らは実に自分の欲求に素直だということに気がつく。言いたいことを言いたいときに言いたいだけ言う。歌も歌う。遊びには全力投球。面白そうなものをぱっと見つけ、一度見つけたら時間を忘れてじっと見る。童心を忘れないというか、大人になれないというか、ともかく非常にシンプルな人々である。そんな彼らを眺めているだけでこちらは楽しい。

しかし、同時に、いかにしてお金を儲けよう、いかにしてラクしよう、いかにしてラクにお金を儲けようと四六時中考えているようにも見える。文句ばかり言うし(政治について、仕事について、天気について、etc…)嫉妬心も結構強くて、うわさ話が大好き。それでもなぜか憎めないのは、欠点を覆って余りある天然の良さがあるからだ。

そして、すべてのイタリア人に備わっているとは言えないけれど、もう一つの美点がある。それは、勤勉であること。働く人はものすごく働くのだ。よく冗談で、この国は1人の働く人の肩の上に100人の働かない人が載っている、などと言う。イタリア人全員が、働く人になったら、この国はまったく別の国になっているだろう、とも。

ジュリアーノ・ガルガーノのもとで、既に25年以上働く男がいる。エリオ・コッツァ、サルデーニャ出身。農家に生まれた7人兄妹の5番目。苦しい家計を助ける為に、14歳で故郷を離れ、ピエモンテ州州都トリノのリストランテの下働きに入った。以来、兵役でサルデーニャに赴任した以外は、故郷に落ち着いたことはない。

エリオと料理の出会いは、そのトリノのリストランテであることは間違いないが、姉によれば、幼い頃は料理する母親を自ら進んで手伝っていたというから、根っからの料理好きなのだろう。ともかく、料理人の仕事を端で見て覚え、その店のスペシャリティは魚料理だったから、魚の名前は覚えずとも、どう料理するかは体で覚えた。

内陸の都市で魚料理を出す店となれば、それは高級料理店である。自然、お客も身分服装卑しくない、それなりのクラスである。つまりエリオは、料理とともに、紳士たるものの装いを学んだ。ブランド云々についてではなく、常にジャケットにネクタイという装いであるべし、と脳細胞に刻みこんだのである。だから、夏の一時期を除いて(何しろ、厨房の温度は50度にもなる)、エリオは常にシャツにネクタイを締めて厨房に立つ。冬はロングコートをなびかせて自転車で市場に買い出しに行く。知らない人が見れば、どこの社長さんかと思うような出で立ちである。

エリオがジュリアーノと出会ったのは、84年。それ以前は兵役だったり、アフリカで井戸を掘るイタリアの会社に料理人として雇われたりといった日々を送っていた。そして、フィレンツェに移り住んで料理人となっていた弟に、働き口としてガルガを紹介されたのである。エリオは口八丁手八丁なイメージのイタリア人とは違う。どちらかというと口下手で朴訥。しかし、それだけに純粋で真面目な人柄だ。何かと目立ち、クセのあるジュリアーノとは凸と凹といった具合に不思議と馬が合ったようで、以来、エリオはジュリアーノの片腕としてガルガを支えてきたのである。

定休日以外の週六日、朝は仕込みをし、夕方からの営業では鍋をふる。それをずっと今も続けている。ジュリアーノには2人の息子がいて、幼かった子供たちが成長し、厨房で働くようになっても、彼らからは常にズィオ(おじさん)と呼ばれてきた。他の従業員もそれにならってエリオのことをズィオと呼ぶ。ジュリアーノがバッボ(父さん)ならば、エリオはおじさんなのだ。だから、ジュリアーノが体を壊して店に出られない時、2人の息子が店を離れた時、いつもエリオが厨房を切り盛りしてきた。

エリオはジュリアーノをとても尊敬している。自由でインスピレーションに長け、誰もやらなかった料理を作り出したからだ。しかし、それを殊更に言葉にして語ることはない。語るよりも働く。ガルガの料理を忠実に再現し、小賢しい改良はけして加えない。エリオにとって、料理とはガルガの料理にほかならないし、その料理を失うことがあってはならないのである。

しかし、こう書くと、エリオは真面目一本やりの暗い性格かと思えてしまうが、実際はそうではない。歌は歌えないけれど聞くのは好きだし、踊りはうまくないけれど踊るマネをしておどける。スプマンテの一杯を飲めば上機嫌で冗談を言う。日本人女性と結婚しているので日本にも度々訪れていて、耳に残った日本語のフレーズを意味もわからずに披露する。

「アンタが大将、アタマ悪い、アタマ締める、アタマ良くなる、まもなくデンシャがまいります、アブナイですから、おさがりください」

等等、週に一度の休みの日、友人を招いての食事会で、日本人が混ざっていれば必ず飛び出す不思議なニホンゴ。受ければ調子に乗ってさらにしゃべるが、度を過ぎると夫人に怒られる。するとまた、ゴメンナサイと素直に謝る。それを見てまた周囲はうけるといった具合。つまりエリオは根が陽気なのだ。

器用ではないけれど真面目で、心から尊敬する人を持ち、楽しいことが好き。エリオとは、珍しいほどの善良なる男、uomo buonoである。このエリオあってのガルガなのである。

 

 

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About Manami Ikeda (325 Articles)
大学卒業後、出版社に就職。女性誌編集に携わった後、98年に渡伊。以来ずっとフィレンツェ在住。取材とあらばどこにでも行きますが、できれば食と職人仕事に絞りたいというのが本音。趣味は猫と工場見学。
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