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イタリアの老舗料理店03サヴィーニ1867年創業(無料配信)

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サヴィーニSavini(ミラノ)創業1867年

ガッレリア誕生とともに生まれたミラノ近代史の生き証人

ミラノを訪れたなら必ず一度はヴィットリオ・エマヌエーレ二世のアーケード、通称ガッレリアに足を運ぶことだろう。大聖堂ドゥオモから人ごみをかきわけて巨大なアーチをくぐりぬけると、冬でも陽光降り注ぐガラスの回廊ガッレリアに出る。イタリア統一直後の一八六五年から建設が始まり、完成に要した時間は実に十二年。初代イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の名を冠した巨大なモニュメントである。東西南北に伸びた二本の回廊が交差する中心部に立ち、ガラスの円天井を見上げてみると、ガッレリアの巨大さが体感できる。ミラノ市民に一般公開されたのはまだ完成半ばの一八六七年九月十五日。ドゥオモ広場とスカラ座をつなぐ回廊の建設について当時のミラノの風潮は賛否両論であったといわれるが、百五十年たった現在ではもはやガッレリア抜きのミラノなど想像もできない。そんな記念すべき日「サヴィーニ」も同時にガッレリア内に誕生した。

当初はドイツの事業家ヘール・シュトッカーがドイツ風ビアホールとして営業を開始したが、やがてミラノ近郊ヴァレーゼ出身のヴィルジリオ・サヴィーニを共同経営者として迎える。サヴィーニは後にシュトッカーから完全にビアホールを受け継いで改装。ビアホールから一転、ミラノを代表するような高級リストランテ「サヴィーニ」として再スタートを切る。

一九〇〇年代になると「サヴィーニ」は「ミラノのサロン」と呼ばれるようになり、ミラノを代表する芸術家、音楽家、文人、事業家などが集う社交の場となる。このサロンからは現代のミラノを代表する幾つもの重要なプロジェクトが生まれてきた。ボッコーニ兄弟は百貨店「オー・ヴィユ・ディタリエ」を始める。これは後に詩人ガブリエレ・ダヌンツィオにより、「ラ・リナシェンテ」と改名され、イタリア一の総合百貨店としての地位を揺るぎないものとしている。

通信と電報のサービスを開始したのはエウジェニオ・トレッリ・ヴィオリエール。彼はやがて日刊紙「コッリエレ・デッラ・セーラ」を創刊。現在のイタリアで最も権威ある新聞のひとつである。彼らはいずれも「サヴィーニ」初期の常連たち。店のテーブルでオッソ・ブーコ・アッラ・ミラネーゼなど食べつつ、夜な夜な事業計画などが語られていたのである。当時のミラノは新時代の象徴であり、経済的にも文化的にもイタリアをリードする希望の都であった。国民的大音楽家ジュゼッペ・ヴェルディは「アイーダ」や「オテロ」でミラノ市民に熱狂的に迎えられ、晩年は出版人リコルディとともに「サヴィーニ」に通った。ミラノ〜モンツァ間には馬車道が開通し、ジョコーザ兄弟による電話の実験が行われた。一九〇六年には万博が開催されて鉄道が開通、ジュゼッペ・ボディーナがヴィルジリオ・サヴィーニから経営を引き継ぐ。「サヴィーニ」黄金時代のはじまりである。

「サヴィーニ」に通った著名人といえばまず詩人ガブリエレ・ダヌンツィオの名が挙げられる。イタリアの老舗を旅するとダヌンツィオの名をよく耳にするが、「イタリア老舗協会=ロカーリ・ストリチ・ディ・イタリア」によればこうした老舗を最も多く訪れたのは「イタリア紀行」を著した文豪ゲーテ。次いでダヌンツィオである。ヴェリズモの代表的作家で「カヴァレリア・ルスティカーナ」を書いたジョヴァンニ・ヴェルガと同名のオペラを作曲した音楽家ピエトロ・マスカーニ。北イタリアを多く旅した作家アーネスト・ヘミングウェイ。戦後にはソプラノ歌手マリア・カラスと「山猫」などの代表作で知られる映画監督ルキノ・ヴィスコンティも常連組。二人が「サヴィーニ」を訪れた写真が残されているし、特にマリア・カラスは「サヴィーニ」の長い歴史の中で最も華やかなゲストであった。「サヴィーニ」のダイニング・スペースの奥には桜の木で作られた巨大なバーカウンターがあるが、その手前、店内最奥部にある最も見晴らしのよい席がかつてのマリア・カラスの指定席であった。

スカラ座と「サヴィーニ」は切っても切れない関係にある。オペラの殿堂を彩る歌手や音楽家たちが「サヴィーニ」に集い、舞台がはねた後は着飾った紳士淑女たちが食事の席に着く。スカラ座の音楽監督を勤めた偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの名は今も二階の個室に「サーラ・トスカニーニ」と残されており、近年では同じくスカラ座の音楽監督だった「マエストロ」リッカルド・ムーティがよく訪れた。しかし一九四三年のミラノ空襲の際、爆撃によって「サヴィーニ」は完全に崩潰。同じく被害を受けたスカラ座は翌年公演を再会したが、「サヴィーニ」の修復には七年を要した。しかし当時のスタッフの努力により創業当初の姿通りに再建。現在はミラノ市から歴史的建造物と指定されている。

今回五年ぶりに訪れた「サヴィーニ」はやはりその頃とまるでかわらないたたずまいであった。蝶ネクタイのドアボーイが案内してくれる通りに席に着くが、それはあのマリア・カラス・テーブルの隣でダイニングの最奥部。昼下がりの「サヴィーニ」はミラノのビジネス・マンらしき人たちが数組、小声で話しながら食卓を囲んでいる。「サヴィーニ」には音楽家の名を冠したメニュ・デグスタツィオーネ、すなわちコース・メニューがいくつかある。例えば「メニュー・マリア・カラス」というのがあるが、これは

 パルマ産生ハムとポルト酒に漬けたメロン

 リゾット・マンテカート・サヴィーニ風

 トマトとフレッシュ・バジリコの小さなミネストラ

 ドルチェ・カフェ

 

という感じ。歌姫マリア・カラスをイメージしてあるので、セコンドにミネストラ、野菜中心の非常にヘルシーな構成となっている。他にメニュー・カレーラス、メニュー・ドミンゴも魚中心の軽快な構成だが、三大テノールの重鎮パヴァロッティのメニューはというと

 フォアグラと黒トリュフのパルフェ

 タレッジョ・チーズと洋梨のリゾット・マンテカート

 牛フィレ肉のマルサラ・ソース

 チョコレート・ムース

とパヴァロッティもロッシーニもそろって舌なめずりしそうなハイカロリー、美食家メニューとなっている。アラカルト・メニューを見ると伝統ミラノ料理には「サヴィーニ」の「S」印がついている。この日注文したのは前菜は「ミラノ風ネルベッティ」でS印。これは牛スジをタマネギとともにサラダ仕立てにし、アチェート(酢)を効かせたドレッシングで食べる。いわゆる庶民の料理「クチーナ・ポーヴェラ」だが、コラーゲン摂取にはとてもよい。

プリモはリゾットだが、創業以来の定番サフランをきかせたマンテカートもいいが「アル・サルト」もいい。これはリゾットをフライパンでカリカリに焼いた料理で、歯ごたえは軽やかで香ばしい一風変わった米料理。当然S印。セコンドは「コストレッタ・ディ・ヴィテッロ・アッラ・ミラネーゼ」S印。創業時のレシピによれば骨付き子牛肉四百グラム(!!)が一人前だそうだが、現在は百五十グラム。ミラノではカツレツを意味する「コトレッタ」でなく肋間肉、ロースという意味の「コストレッタ」という。バターの香りが香ばしく、さっくりとした軽やかな歯ごたえ。「サヴィーニ」こそコストレッタ発祥の地、と伝統ある厨房を守る若きシェフ、アレッサンドロ・キエーザはいう。十九世紀半ばのミラノ暴動鎮圧時にオーストリア軍がコストレッタを知り、本国に持ち帰って広めた、という説が現在は主流だが、ことの真偽はともかく。そんなミラノ近代史に思いを馳せながら、ほおばるコストレッタはまた格別の味わいである。

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匡克 池田
About 匡克 池田 (1145 Articles)
1967年東京生まれ。イタリア国立ジャーナリスト協会会員、フォトジャーナリスト。日本で出版社勤務後独立、1998年よりフィレンツェ在住。「シチリア美食の王国へ」「イタリアの老舗料理店」「フィレンツェ美食散歩」「伝説のトラットリア、ガルガのクチーナ・エスプレッサ」など著書多数。2011年に池田愛美と株式会社オフィス・ロトンダ設立。国際料理コンテスト「Girotonno2014」「Cous Cous Fest2014」で日本人初の審査員となる。 http://www.office-rotonda.jp https://www.facebook.com/ikedamasa
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