現代イタリアにおけるパスタのアイデンティティ

昨年8月にこの世を去ったガンベロ・ロッソ初代編集長ステファノ・ボニッリと会った時、こんな話をしていたことがある。「2008年のリーマン・ショック以降、イタリアのレストラン界は未だに苦しんでいる。星付きレストランでいうなら20%が星を失ったか閉店した。いままでシェフとは料理をすればよかったのだが、これからはプロデューサーであり、経営者でなければならない。しかしプロデュース能力でいえば、イタリアはスペインに遅れること甚だしい。いまこそ真剣にイタリア料理のアイデンティティを模索しなければいけないのだ」

時に辛辣で、時にはユーモラスだったステファノ・ボニッリの言葉はイタリア・レストラン界に重く響いた。70年代にマルケージがトロワグロに学んだように、それまでアルタ・クチーナの世界でイタリアが志向するのはフランス一辺倒だったが、気がつくと話題性でも評価でもまた実力でも隣国スペインに大きく遅れをとっていたのだ。

そうした高級レストラン不遇の時代、食に携わるイタリア人はさまざまな食のコンヴェンションを開催するようになり、イタリア料理はどうあるべきか?という永遠の命題について、おそらくはイタリア料理史上初めて活発に議論するようになった。そうした議論の末、たどりついたのは極めてシンプルな結論。つまり「イタリア料理の存在証明はパスタにある」ということだったのだ。

 

毎年2月にミラノで開かれる国際的な料理コンヴェンション「イデンティタ・ゴローゼ」を主宰するジャーナリスト、パオロ・マルキはいう。「いつまでもアルトゥージなど昔のレシピ集をめくっていてもイタリア料理に未来は無い。料理人とはつねに考えて進化しなければいけないのだ」。

「イデンティタ・ゴローゼ」とはあえて訳すなら「健啖家の存在証明」とでもなろうか。今年、銀座ブルガリのシェフ、ルカ・ファンティンが「外国で働く最優秀イタリア人シェフ」として表彰されたことは関係者の間で大いに話題となった。イタリア国内のみならず、イタリア料理大使として諸外国で働くシェフたちの活動にまで目を向けたのは「イデンティタ・ゴローゼ」が初めてだったからだ。「イデンティタ・ゴローゼ」には多くの部会があるが、中でも「イデンティタ・ディ・パスタ」(パスタの存在証明)は、多くのトップシェフが表現する「パスタ・ダウトーレ」(オリジナル・パスタ)を研究をするワークショップだ。2015年2月の「イデンティタ・ディ・パスタ」に登場したのは、フード・デザインの第一人者ダヴィデ・スカビン(コンバル・ゼロ)。透明のケースに詰めたラヴィオリをソースと和え、客自らがシェイクして食べる「ラヴィオリ・シェイク」など乾燥パスタを使った革命的ともいえる過激な料理が代名詞だがパスタについてこんな逸話を話していた。

「ある時一人の紳士が店に来てわたしにたずねた『なぜ乾燥パスタがメニューにないのか?』と。わたしは『そんな平凡なことはしない』と答えたのだが半年後その紳士は再び店に戻って来ると、パスタを一箱差し出してこういったのだ。『これで平凡じゃないパスタを作って下さい、お願いします』その紳士とは、パスタ・メーカーのリッカルド・フェリチェッティだった」以来スカビンはフェリチェッティの乾燥パスタをあえて「過激に」使うようになったという。

同じく「イデンティタ・ディ・パスタ」でカルロ・クラッコがニンニクを使ってスパゲッティ・アマトリチャーナを作った際、発祥の地アマトリーチェをパスタ論争にまで発展したことを覚えている方はいるだろうか。アマトリーチェ市長いわく「ニンニクを使うのはアマトリチャーナではない。そのパスタをアマトリチャーナとは呼ばせない」と過剰に反応し、一方現代イタリアTV界で最も有名な料理人でもあるクラッコは「だって、それのが美味しいから」と意にも介さずあっさりと抗議を退けた。パスタのレシピひとつで地方自治体を巻き込んだ論争が起きてしまうのがイタリアなのだ。

近年イタリアではパスタ史の研究が非常に盛んである。それはネットやSNSの発達でそれまでごく一部の地方でしか見られなかった幻のパスタが比較的安易に見られるようになったこともあるが、イタリア料理の根源としてのパスタを見直す動きが料理人の世界だけでなく、研究者の間でも浸透しつつあることを意味している。そうした研究から、これまで定説とされていたパスタにまつわれありとあらゆる伝説が次から次へと覆されているのも事実である。その最大の間違いがマルコ・ポールが中国からパスタを持ち帰った、という説であろう。

これは1929年に発売されたアメリカのパスタ業界誌「ザ・マカロニ・ジャーナル」が取り上げて以来80年代まで半ば公然の事実として日本でもよく取り上げられていた逸話だ。パスタの誕生は粒食から粉飾へと人類が進歩し、古代ローマ時代にはすでに小麦粉を少量の水でまるめて茹でるという、非常に原始的な料理(ニョッキ)、から、さらにそれを伸ばして窯で焼いたもの(ラーガネ、ラガノン=ラザーニャの語源)までさまざまなパスタ料理が存在していた。仮にこの場合マルコ・ポーロが持ち帰ったとするパスタの定義をいわゆる日本人がいうところの麺、小麦粉の生地をひも状に伸ばし、時には乾燥させたもの、と定義するならば、それは歴史上完全に間違いであることが証明されている。24年に渡る東方への旅の後、マルコ・ポーロがイタリアに戻ったのは1295年、その時に中国で見た細長い食べ物を持ち帰り、同船していた船乗りの名前を取ってスパゲッティとなづけた、とされているが、それに先立つこと100年以上前の1154年、アラブの地理学者アル・イドリジが著作「ルッジェーロ王」の中で「そこには粉挽き小屋があり、農場ではイトゥリアを製造して船旅に供する糧食として広く輸出している」と書いている。おそらくは食品としてのイトゥリア=パスタにはさほど興味が無かったと思われるが、それよりも注目していたのは、シチリア以外の地方にない輸出品としてのパスタの存在、しかも「船旅に供する糧食」という点だった。

古代ローマ時代、ローマの穀倉庫と呼ばれたシチリアで始まった乾燥パスタの使用目的は船旅の糧食であった。コロンブスはじめ大航海時代、大海原に乗り出したジェノヴァ人たちが自分達で船の糧食を作り始めたとしても不思議ではない。当時地中海は重要な交易路であり、パスタ生産の拠点はシチリアから海を挟んで船乗りたちの街ジェノヴァへと移ってゆく。海からの風がパスタを乾燥させるのに適したジェノヴァでは、シチリアから硬質小麦を輸入、乾燥パスタの生産が始まる。ジェノヴァにある国立公文書館に残された記録によれば1244年には史上初めて「パスタ」という記述が見られ、1279年にはある商人の資産目録に「マカロニ1ケース」という記録が残されている。

そしてこれもまた昔からよく言われるパスタの謎のひとつだが、ただでさえ真水が貴重な船の上で果たしてどうやってパスタを茹でたのであろうか?パスタが持つおそらく唯一の欠点は大量のお湯を必要とすることである。昔からよく言われているのが海水でパスタを茹でたという説。しかし通常レシピ集などでは1リットルのお湯に5gの塩を入れ、という記述がよく見られるがこの場合の塩分濃度は0.5%。しかし地中海の塩分濃度は3.5〜3.8%と、これで茹でたら間違いなく塩辛くて食べられないであろう。ニョッキの原型はおそらくアラブのキャラバン隊が小麦粉と少量の水で練り、スープの具として食べたと言われる。同じく水が貴重な砂漠の世界ではうなずける説だが、船上糧食としてのパスタの調理法に関して、納得のゆく文献はいまだ発見されていない。

パスタの歴史における激動の時代は18世紀後半から19世紀後半にかけての約100年間。18世紀半ばにおきた産業革命後、イタリアではパスタの工業化がはじまり、ナポリ近郊グラニャーノなど新興のパスタ生産地が誕生した。そうしたパスタ生産はイタリアのみならずヨーロッパ全体に広まり、当時合衆国政府初代駐仏大使としてパリに滞在していたトーマス・ジェファーソンはパリでパスタ生産の機械、その名も「マカロニ・マシン」を購入、アメリカに持ち帰りブルックリンでアメリカ史上はじめてパスタの生産が始まった。そして19世紀になるとイタリア統一運動が活発になる。トリノを本拠地としたサヴォイア家出身で初代イタリア国王となるヴィットリオ・エマヌエーレ2世、初代首相となるイタリアの頭脳カミッロ・ベンソ・カヴール、そしてイタリアの剣ジュゼッペ・ガリバルディだ。ガリバルディは野戦暮らし、とにかくストイックな痩せた鷲のような風貌な男だったが、カヴールはグルメでどちらかというやや太め。イタリア統一運動の初戦としてマルサラに向けて出航する前、千人隊と別れの杯を交わしたとされるのがジェノヴァにある「アンティカ・オステリア・デル・バイ」現在の看板パスタは「バジリコと甲殻類のラザーニャ」や「オマール海老のニョッキ」。前線暮らしのガリバルディとは対照的に、外交でイタリア統一を進めたのがカヴール。統一イタリア王国初代首長となったあと、イタリア国会はトリノのカリニャーノ宮殿に置かれたが、カヴールが執務の合間、毎日のように出掛けたのが宮殿前にある1757年創業の老舗レストラン「デル・カンビオ」だった。現在はカルロ・クラッコの右腕だったマッテオ・バロネットがシェフを務めるが往年のレシピ「カヴール風アニョロッティ」は健在。これはピエモンテ伝統の内臓料理フィナンツィエラを使ったアニョロッティだ。

イタリア料理史において、そしてイタリア人のアイデンティティとしてつねに中心的位置をしめて来たパスタだが、今日その地位は徐々に揺らぎつつある。現代イタリアでは「太りたくない」という女性や若者層を中心にパスタ離れが進んでいる。また、戦後高度成長期の大量生産のひずみをうけてか、生まれながらにグルテン・アレルギーやさらにはトマト・アレルギーの子供や若者が増えている。つまり彼らはイタリア人であるのにパスタやピッツァを口にできないのである。街を歩けば「グルテン・フリー」の看板が、スーパーには同じく「グルテン・フリー」の商品が多く並び、書店では同じく「グルテン・フリー」のレシピ集が平台に並ぶ。そんな状況下に置かれながらも、料理人たちが考えるのはやはりパスタ、イタリア料理としてのアイデンティティなのだ。

ミシュラン3つ星の店でピッツァが登場することはまずないが、コースの中にパスタは必ず存在する。モデナの3つ星「オステリア・フランチェスカーナ」でグランド・メニューに名を連ねるのはエミリア地方の郷土料理である「タリアテッレ・アル・ラグー」や「トルテッリーニ・アル・パルミジャーノ」であり、「ダル・ペスカトーレ」の看板メニューは何十年経っても「カボチャのトルテッリ」である。そうした多種多様なパスタこそがイタリアが持つ複雑性、ミクロコスモスを表現しうる唯一の要素であり、イタリアがイタリアたるゆえんなのである。

池田匡克=取材、文、撮影 初出・料理王国2015年9月号