イタリア菓子伝12 バイコリ

イタリアの朝食アイテムの定番の一つに、フェッテ・ビスコッターテfette biscottateがある。小型の食パンを薄切りにして焼き、水分をほとんど抜いたものだ。バールやカフェではお目にかからないが、スーパーの“朝食向け”コーナーには必ず置いてあるし、ホテルの朝食でも常連だ。普通はそのまま、あるいはバターやジャムを塗って食べる。水分がないのでごく軽く、保存もきくが、美味しくて感動する、というものでもない。だが、ヴェネツィアのビスコッターテは違う。厚さは3ミリほど、パリっとした歯ごたえとバターの香り、ほんのりとした甘さが独特で、一度食べたら忘れられない。

海運共和国として栄華を誇ったヴェネツィアでは、造船は国家事業であった。その国営の造船所では造船のみならず航海にまつわる様々な技術もトップシークレットである。その中の一つにパン・ビスコッティと呼ばれるものがあった。焼いたパンを薄切りにしてさらに焼いてもので、その保存性の高さは、1821年にクレタで見つかった150年以上前のパン・ビスコッティがほとんど変質していなかったという出来事からも伺える。この伝説的なビスコッティはやがて共和国の衰退と共に一般人にも手が届くものとなっていった。門外不出のはずのレシピがいつの間にか街中のパン屋で作られるようになり、18世紀後半以降次から次へと誕生したカフェでも当たり前のように供されるようになったのである。ヴェネツィア人はこのビスコッティを、ボラまたはスズキの幼魚に似た形をしているからとその名をとってバイコリと呼んだ。

ヴェネツィアの言葉は、イタリアの中でもかなりユニークで、他のどの土地とも違う単語が多くある。アクセントの位置も独特で、ヴェネツィア人の話す言葉を聞いているとその不思議な抑揚が、まるで波に揺られているような気分にさせる。バイコリも、アクセントは「イ」につき、強調すれば「バイーコリ」と発音する。土地独特の単語は大抵覚えにくいのに、バイコリはその音の面白さのおかげで、初めて聞いた時にすぐに耳に残ったのである。

バイコリがヴェネツィア発のお菓子としてその名を知られるようになったのは、1911年創業のコルッシColussi社が特製の缶入りや箱入りで売り出してからである。18世紀ヴェネツィアを思わせる男女が手を取り合うデザインが印象的で、今もなおレトロなヴェネツィア土産として人気がある。話は逸れるが、コルッシ社は他にも様々なビスコッティを自社ブランドとして販売しているほか、パスタのアネージやトマト缶で知られるデルモンテなども傘下に置いている。ヴェネツィアに始まった企業の中では有数の存在だ。

コルッシのバイコリの原材料を見ると、「小麦粉、砂糖、バター、アヴェーナ由来の食物繊維、粉末牛乳、大麦及びトウモロコシ由来の濃縮モルト、塩、ビール酵母」となっている。これは、ヴェネト州の観光協会が公開しているレシピとさほど違いはない。

牛乳 100ml

小麦粉 400g

グラニュー糖 50g

バター 80g

卵白 1個分

ビール酵母(生イースト) 15g

塩 少々

ビール酵母に温めた牛乳を少量加えて溶かし、小麦粉100gに混ぜて練る。残った牛乳はとっておく。滑らかで均一になったら丸くまとめ、十文字の切り込みを深く入れて覆いをし、発酵させる。小麦粉300gに塩、グラニュー糖を加え混ぜ、発酵させた先の生地、柔らかくしたバター、泡立てた卵白も加えてさらに練る。様子を見ながら残した牛乳を少しずつ加えて練り、一般的なパン生地のテクスチャーを目指す。足りなければ牛乳をさらに加える。生地を4つに分け、それぞれを筒状にまとめ、天板に並べて発酵させる。180度の10分ほど焼いたら取り出し、冷めたら覆いをして二日間そのまま置いておく。端から薄切りにして天板に並べ、170度で10分焼く。時折り面裏を返して両面に満遍なく薄い焼き色がつくようにする。作り方はシンプルだが、一度焼いた後に二日間休ませるので、完成までに時間はかかる。そして、湿気やすいので密閉容器で保存することがポイントだ。

ホットチョコレートに浸したり、ザバイオーネを掬ったり、カフェや紅茶ともよく合うが、クリームチーズを塗ってプロセッコのお供にしてもいい。控えめだが応用力という実力に長けたビスコッティである。