パスタの歴史その1 パスタの原初(全9回)

マルコ・ポーロが中国からパスタを持ち帰ってイタリアに伝わったという通説が信じられていた時代があった。イタリアで漠然と流布していたこの説は、1929年に発行されたアメリカのパスタ業界誌「ザ・マカロニ・ジャーナル」に載って以来、“真実”として確立してしまった。というのも、それ以前はパスタの起源についての研究はないに等しかったし、あったとしても一般人の目や耳に触れることはなかったからだ。1980年代に、イタリアの農業史研究家やフランスの比較文化学者による研究が発表されるようになり、そこで小麦を原料とする粉もの文化はアジア、中近東で同時発生的に誕生し、小麦の栽培種が伝わった地中海地方にもほぼ時を同じくして粉もの、つまり、パンとパスタの歴史が萌芽したと説明されるようになった。以降次々とマルコ・ポーロ以前にパスタが存在していた証拠が示されるに至ってかの通説は完全に否定されたのである。

中国を中心とする麺文化はアジアに広く分布しており、日本でもその歴史研究はかなり進んでいると言われるが、イタリアのパスタの歴史に関してはその研究の日が浅く、一般的に出版されている関連書物も多くはない。ただ、数は少ないにしても、徐々に精度は高まっており、市井のパスタ愛好家の知識欲をそこそこに満足させる程度にはなってきている。

パスタの原初

麦の栽培は紀元前8000年頃、ヨルダン川沿岸の肥沃な谷で行われていたことが判明している。学校の歴史の授業で、ティグリス・ユーフラテスの二つの川に挟まれたメソポタミアで農耕が始まったのは紀元前4000年頃と習ったが、近年の発掘調査では、もっと以前から、しかも、メソポタミアから離れたパレスチナでも麦が栽培されていたことがわかっている。いずれにしても、人類は農耕を始めることで流浪の暮らしをやめ、定住し、菜食を食生活の中心とするようになった。農耕の主役である麦は、やがて小アジア、そして、エーゲ海を渡ってギリシャ、ヨーロッパへと波及したと考えられている。

当初、人類は麦を焼いて粒食していたとされる。しかし、麦はそのままでは固く、殻も頑丈で食べにくい。麦を効率良く摂取するために人類は知恵を絞り、加工技術を磨かねばならなかった。まず、焼くだけでなく、水と一緒に煮てみた。粥のような、イタリア語でいうポレンタである。さらには、粉に挽き、水を加えて練り、そして焼くという方法が確立していった。いわゆるパンの原型である。エジプトのファラオの臣下の墓に、粉引き屋や、女たちが粉を選り分け、男たちが練ったものを焼いているパン屋の様子が描かれた壁画が残っているという。

パンがこのように紀元前数千年にまで辿れるように、パスタもまた紀元前6000~5000年頃、エトルリアにあったと推測されている。とはいえ、これがパスタの唯一の起源と断言することはできない。なぜなら、パスタは、パンと同じく、各地で同時発生的に生まれたものと考えられているからだ。地中海地方の麦、オーツ麦、スペルト小麦、北アフリカのソバ、北ヨーロッパのライ麦、南米のトウモロコシ...。世界にはさまざまな穀類が存在する。同じようなことがさまざまな場所でほぼ同時に起きるというのは、歴史的にしばしば見られる現象である。

発明と発明者を明瞭に関係づけるのは難しい。しかし、「粉と水を練り、発酵はさせずに乾燥させ、長期保存を可能とし、使う時にはゆでる食品」としてのパスタの伝播の時とそれに関わった人々をある程度まで絞り込むことはできる。

何世紀にも渡って、パスタはゆっくりと進化してきた。不完全だがさまざまな可能性を秘めた“生地”、それを平たくのばしたベーシックな“パスタスフォリア”、そこから生まれるさまざまな“紐状の”パスタ、さらに“小型化”や“トルテッリやラヴィオリ”のような洗練のパスタへと進化したのである。

パスタには大きく分けて、作ってすぐに食べる生パスタ(パスタ・フレスカpasta fresca)と一旦乾燥させて、食べる時にゆでる乾燥パスタ(パスタ・セッカpasta secca)があるが、ここではおもに、乾燥することによって長期保存が可能な乾燥パスタについての歴史をたどることにする。