パスタの歴史その7 パスタ職人とパスタ製造の変遷(全9回)

パスタ職人とパスタ製造の変遷

ルネサンス期の料理書に出てくるパスタは、基本的に手作りを念頭に置いたもので、貴族など富裕層の厨房で料理人が手がけるものだった。一般庶民がパスタを食べようとすると、職人が作る専門の店で買うのである。とはいえ、高級品だったから、日常の食品ではなかった。いずれにしても、こうしたパスタは乾燥させずに作ってすぐに消費する生パスタが中心だった。

16世紀から17世紀にかけて、職人たちの技術向上、農産物など食品の普及、価格統制の必要などから、パスタ製造者の組合アルテ・デイ・パスタイが各地に誕生した。ジェノヴァはフィデラーリFidelari(1574)、ナポリはパスタイPastaiとヴェルミッチェッラーリVermicellari(1579)、パレルモのマッカロナーリMaccaronari(1605)など、パスタ職人を表す言葉は土地によって異なってはいたが、相次いでそれぞれの組合が結成され、製品の品質維持と保護を目的とする規定を定めた。パスタ製造工房は17世紀には急激に増加したため、教皇ウルバーノ8世はパスタの流通販売を管理すべく、1641年発布の大勅書で製造(販売)所は互いに80m以上離れていることとする、と定めている。

組合に所属するような工房が手がけるのは、生パスタもあったが、硬質小麦を使った乾燥パスタが中心だった。シチリアに始まった乾燥パスタは、海運国であったジェノヴァに渡り、当地でも乾燥パスタ製造が行われるようになった。そしてナポリにも伝わり、特に豊富な水源に恵まれたラッターリ山地近辺(トーレ・アンヌンツィアータ、後にはグラニャーノも)で乾燥パスタの製造が盛んになった。大量に製造するための道具も発達した。てこの原理を使った練り機、そして、生地の押し出し機が登場する。とはいえ、動力は人あるいはロバといった程度の小規模で、工房で働くのは3人から5人が一般的、なかには1人工房も存在した。

18世紀イギリスでマッカローニ/マッケローニはイタリアの象徴だった。物腰優雅な少々スノッブな雰囲気で、外国の食べ物を好んで食べるような人物を指してマッカローニと呼んだという。1700年代のロンドンに存在したマッカローニ・クラブに属していたのは、若い船乗りで、長い巻き毛と耳飾りをし、美食を好む連中だった。

イギリスを始めとする外国でイタリアのパスタが人気を呼ぶにつれ、その製造量増加は急務となった。シチリア、カンパーニア、リグーリアの生産者は事業拡大に取り組む。折しもイギリスでは産業革命が始まり、イタリアのパスタ業界にも機械化の動きが広がった。しかし、機械化に熱心だったのはリグーリアで、南部のカンパーニアとシチリアは職人の「仕事を失うかもしれない」という抵抗もあって、なかなか一朝一夕とはいかなかった。

それでも、硬質小麦100%の上質なパスタはイタリアでしか作れない。フランスなどにもパスタ工場はあったが、硬質小麦に混ぜ物をしたり、乾燥工程を室内で行うなど条件も悪く、あくまでも二級品だった。イタリアの乾燥パスタの高い品質は、原材料の選別の確かさ、硬質小麦の性質を知り尽くした職人の技術、そして乾燥に適した気候によって成立していたのである。「イタリア製のパスタ」は売れると目を付けたのが、伝統的パスタ産地以外の北イタリア諸都市のメーカーだ。機械による大量生産と乾燥工程の技術を磨けば商機はあると踏んだのだ。機械導入に消極的だったカンパーニアもこの動きは無視できず、機械化に踏み切る生産者は徐々に増えていった。そして、ラッターリ山地のトーレ・アンヌンツィアータやグラニャーノがイタリアきってのパスタ製造地として大いに繁栄したのである。ちなみにシチリアはこの波に乗れず、イタリア最初のパスタ産地はそのまま衰退の道を辿ることになる。

 

 

Masakatsu IKEDA
About Masakatsu IKEDA 1181 Articles
池田匡克 Masakatsu IKEDA ジャーナリスト 1967 年東京生まれ。出版社勤務後1998 年イタリアに渡り独立。旅と料理のビジュアル・ノンフィクションを得意とし、イタリア語を駆使したインタビュー、取材、撮影、執筆、講演活動を日本、イタリア両国で行う。主な著書に「シチリア美食の王国へ」「イタリアの老舗料理店」「サルデーニャ!」「フィレンツェ美食散歩」「アマルフィとカプリ島」「Dolce!イタリアの郷土菓子」「世界一のレストラン オステリア・フランチェスカーナ」など多数。2005年よりイタリア国立ジャーナリスト協会所属。株式会社オフィス・ロトンダ代表取締役。2014年国際料理大会Girotonno、Cous Cous Festに日本人として初の審査員に選ばれる。2016年レポーター・デル・グスト賞受賞。