シチリア美食の王国へ10 ポショ@サン・ヴィート・ロ・カポ(無料公開)
サン・ヴィート・ロ・カポで出会ったクスクスの女王—Pocho 実はクスクスには苦い思い出がある。というのも生まれてはじめてシチリアの地を旅した95年の夏、孤高の山岳都市エリチェでトラーパニ風クスクスなるものを食べたのだ。この街は標高750m、気温は40度近く紫外線も強いので、外のテラスで食事をしている時むき出しの二の腕が火傷したように真っ赤になった。日射しは強烈で空気も乾燥しているせいかやけに喉が乾き、クスクスと一緒に白ワインやら水やらをとにかくよく飲んだ。恐ろしく暑い日でその後マルサラ近辺のバールでもガッサータを一気飲みしたのを覚えている。さて、その夜の宿泊地であるアグリジェントの旧市街にさしかかったころ急に激しい胃痛に襲われ、坂が多く標識もほとんどないアグリジェントでホテルをなんとか探し出し、部屋に入った途端ほとんど気絶するようにベッドに倒れこんでしまった。旅の緊張か、食べ過ぎか、はたまた食あたりか?とにかく痛む胃を抱えて見知らぬ街の病床でもんもんと眠れぬ一夜を過ごした。しかしその翌朝、今日も暑くなるぞといわんばかりにからりと晴れた青空のように前夜の激しい胃痛は嘘のように消えていた。胃炎でもなく、食中毒でもない、というと単なる食べ過ぎ?唯一考えられるのはクスクスと水分の同時大量摂取によりクスクスが胃の中で大膨張して破裂寸前まで膨れ上がったのではないか、という可能性。危険な食べ物、クスクスを食べてあやうく旅先で頓死するところだった。 その後も東京やパレルモで何度かクスクスを口にする機会があったが、一匙ごとおそるおそる口に運び、ワインは唇をしめらせる程度。食べる時には皿まで食い尽くすと恐れられるこの私の小食ぶりを見て周囲が心配する始末。これではいかん。ひとつ今回は心の奥深くに仕舞いこんだ恐怖心を拭い去るべくクスクス・リベンジといこうか。誰にも言えぬ決意を胸に私はパレルモから高速道路A29号線を西へ向かったのだった。 白ワインDOCの土地アルカモの手前、カステッラマーレ・ディ・ゴルフォで高速を下りる。ギリシャ人の時代にはエリチェや神殿のあるセジェスタへの物資を運ぶ主要港であり、中世にはマグロ漁でも栄えた漁港である。そこから国道をトラーパニ方面へ走ること約1時間、サン・ヴィート・ロ・カポに着く。美しい砂浜を持つこの街は近年リゾート地として栄えているが歴史は古く、周囲の洞窟からは旧石器時代の壁画が見つかっており、洞窟都市も発掘された。この街から海岸線を南下するとズィンガロ自然保護区で、鷲や鷹など猛禽類の生息地になっている。海岸線からわずかの距離に標高800m級の山が連なり、切り立った断崖が続く自然の豊かな絶景のドライブコースである。 この道の途中で珍しいアグリジェント山羊、カプラ・ジルジェンターナを見た。一度見たら忘れられない独特の角を持つこの山羊はチベット山羊に近い種で九世紀にアラブ人がアジアからマルサラ港経由でシチリアヘ連れてきたとされる。この山羊の乳は良質のたんぱく質と脂肪分のバランスが良く、昔からシチリアで愛飲されていて1930年代までは羊飼いがこの山羊を連れて家々を回り、その乳を直接飲ませていたそうだが現在は衛生面の問題で禁止され絶滅の危機に瀕している。アジア原産の山羊の姿がこの地で見られるのも、アラブ人が現在のシチリアに残した強く深い足跡のなせるわざである。 この地域を語るのにもうひとつ忘れていけないのはマグロ漁の文化だ。大西洋からジブラルタル海峡を通って地中海に入ってくるマグロ、主に大西洋クロマグロを追う漁師はトンナロットと呼ばれ、この海域では今でも伝統に則った漁法でのマグロ漁が行われている。マグロ漁に使う網「トンナーラ」から派生しマグロ漁業基地はトンナーラと呼ばれ、最盛期である19世紀にリグーリア州からトリエステまでイタリア半島をぐるりと取り囲んで100以上のトンナーラがあったといわれるが、漁獲量の減少に伴ってこうしたトンナーラも年々減少し今や数えるほどしか残っていない。この海域で現在も操業を続けているのは、トラーパニとサン・ヴィート・ロ・カポを結ぶ海岸線にある1600年代のトンナーラ・ディ・ボナージアのみ。トラーパニの沖合い約15kmにあるファヴィニャーナ島では毎年5月から6月にかけてマッタンツァと呼ばれる囲い込み漁が行われている。小舟でマグロを囲い込み、「死の部屋」と呼ばれる最後の網に追い込まれたマグロを漁師たちが歌を歌いながら一匹一匹、というよりも一頭一頭小さな漁船に取り込んでいき、海面はマグロの血で真っ赤に染まるそうだが、残念ながら未だ見る機会に恵まれていない。この鎮魂歌とも呼ぶべき歌はファヴィニャーナの漁師にしか意味が分からない代々歌い継がれてきた歌で「チャローマ」と呼ばれ、アラーの神を讃えていると思われる歌詞もある。 ズィンガロ自然保護区からトラーパニにかけての海岸線にはすでに使われなくなって久しい廃虚となったトンナーラや見学可能のもの、さらにはホテルとして改装したトンナーラもあるから訪ねてみるのも面白い。5月にファヴィニャーナ島を訪ねれば有史以前の壮大なマグロ漁の光景が見られるだろう。Tonnara di Bonagia(トンナーラ・ディ・ボナージア) Piazza Tonnara, Valderice(TP) Tel0923-431111 fax0923-592177 www.sicily-hotels.com/siti/framon-hotels/tonnarabonagia/home.htm 全41室、キッチン付きのレジデンスタイプもあるトンナーラを改装したホテルで中には漁師ジョヴァンニ・プレスティジャコモ氏が経営するマグロ専門店がある。S85.80ユーロ〜 W121ユーロ〜話はクスクスに戻る。人伝に聞いてこのサン・ヴィート・ロ・カポまでやって来たのは実は「ポショ」というホテル・レストランを経営する「クスクスの女王」と呼ばれるマリルー・テッラージに会うためだった。プロのシェフ向けにクスクスの講習会も行っている彼女の店では、夏になると毎週日曜日に「クスクス・ディナー」と称して本物のクスクス・フルコースが食べられ、遠方からも客がはるばるやってくる賑わいぶりだという。私達が訪ねたのはまた春遠い冬のある日でレストランは夏に向けて改装中。にもかかわらず彼女はホテル内でただ一ケ所原型をとどめているキッチンにてクスクスDOCの作り方を見せてくれ、自宅でのクスクス・ランチへと招いてくれたのである。彼女に会うなり私は切り出した。実は私、エリチェのクスクスで苦い経験をしたことがあるのです、と。一見クールな教師のようにみえるマリルー、私の話をひととおり聞くと、分かった。それにはまずクスクス作りから教えてあげるから明日の朝このキッチンに来なさい、とにこやかに答えてくれたのだ。そして翌朝再び私は期待半分、恐怖半分でそのキッチンに出頭した。 パレルモ生まれのマリルーの少女時代、夏のバカンスは決まってサン・ヴィート・ロ・カポから距離で40km、標高差750mのエリチェだった。エリチェから家族みんなで海水浴を楽しみにサン・ヴィート・ロ・カポまで下りてくることもしばしば。実は、ここに来る本当の目的は海水浴よりも、美味しいクスクスを食べることだったとか。彼女の夏の思いではイコール、クスクスに直結している。マリルーの幼少時であるウン十年前、パレルモではクスクスなど知る人も無かったが、トラーパニ周辺では昔から伝統的な郷土料理であった。 アラブ人がシチリア西海岸に持ち込んだ魚介ベースのクスクスは海辺に面した漁港や島に根付き、アルカモ、マルサラ、マザーラ、トラーパニ、サン・ヴィート・ロ・カポ、エガーディ諸島、パンテッレリア島ではクスクスが祭りの料理である。山地であるために新鮮な魚介が手に入りにくかったエリチェではクスクスは食べなかった、と彼女。要するに私がかつてエリチェで食べたクスクスは本物ではなかった、ということになる。妙齢の乙女となったマリルーは食べるだけでは飽き足らず、本物のクスクス作りを目指すようになる。しかしクスクス作りを単に職業として選んだのでは無く、歴史と伝統料理を研究して自分達のルーツを知るため、クスクスの歴史を遡る長い旅を始めたのである。 日曜日にマンマが自宅で作る家庭料理であったサン・ヴィート・ロ・カポのクスクスを覚えるにはレシピなどなく、ベテラン主婦たちに教えを乞うしか方法が無かった。とはいえ何世紀も家庭の中で伝授されてきた一子相伝、秘伝のレシピは同じシチリア人同士といえども簡単に外部に漏らせるわけが無く、質問も許されずにキッチンの隅で見学するだけの日曜日が何ヶ月か続いた。ようやくクスクス作りを許されたのは数カ月後のある祭りの日、何度も何度も目で見て覚えたことだけでベテラン・マンマたちに混ざってのクスクス作りに成功したマリルーは、言葉や文章で無く、こうして伝統料理が伝わってきたのだと強く確信したという。 クスクス作りは「マファラルダ」と呼ばれる専用のテラコッタに入れたクスクス用デュラム・セモリナを水とともに粒状に練る「インコッチャータ」という作業から始まる。 「ところでクスクスってアラブ語でなんて意味か知ってる?」とマリルー。もちろん知らない、と私。以前チュニジア系移民の左官職人が作業しているところを通りかかった時、仲間同士で「おい、そこのクスクス取ってくれ」と叫んでいるのを聞いたという。これがなんと壁塗りに使う水とセメント、砂を混ぜたもののことで、イタリア語の「パスタ=練り粉」と同じ感覚で使われるアラブ語らしい。 このクスクスを底に穴が開いた専用の蒸し器「クスクシエラ」に移し替えて、ハーブやスパイス、魚のブロードを加えた湯が沸騰する大鍋の上に乗せ、隙間を小麦粉と水を練り合わせた生地で塞ぐ。こうして蒸すこと約1時間、蒸し上がったら別の容器に移し替え、あらかじめ用意しておいた魚のブロードを加えながらよく混ぜる。クスクスの粒が飽和状態に達するまでブロードをたっぷり加えないと、後で水分を得てさらに膨張することになる。どうもここが腹痛のポイントだったらしい。さらにこうしてできあがったクスクスをウールの毛布で包んで(!!)保温しつつ蒸らすこと45分、ようやくクスクスは完成する。早朝からマンマが働きずめで日曜の昼の正餐に間に合う、非常に手間のかかる料理なのである。こうしたマリルーの働きぶりを見守ること約2時間、腹も減った。いざ食卓へ。 マリルーの自宅はサン・ヴィート・ロ・カポの背後に迫る巨大な岩山にへばりついているような小さな集落、マーカリにある。狭くて急勾配の道を上ってゆくと巨大な落石に押しつぶされたまま放置された乗用車や、納屋が巨岩で潰されている家がある。「去年山にかみなりが落ちてこんなに大きな岩が落ちてきたの。幸い怪我人は無かったわ」というマリルーの家はこの現場の数十メートル先。ワイルドな環境である。 この日彼女が用意してくれたのは魚、肉、ドルチェの三種類からなるクスクスのフルコースである。彼女曰くこのあたりで伝統的な「クラッシコ」と呼ばれるクスクスには6種類ある。 1魚、2肉いろいろ、3羊(パスクアに食べる)、4豚肉とブロッコリ、5マッコ・ディ・ファーヴェと呼ばれる空豆のプレとバッカラのフリット 6海藻。 家庭で作るクスクスに使う魚はペッシェ・ポーヴェロと呼ばれる、要するに青魚中心の安い魚でサウロ(鯵)、オパ(鯛の仲間?)、マンガラシナ(想像もできません)がよく使われる。この日の魚のクスクスに使ったのはチポッラと呼ばれるカサゴの仲間とベラをブロードで煮込んだもの。漁師のところまでわざわざ買いに出かけたとれたてのカラマリとガンベリとヒメジ、イワシはフリットにして別盛り。クスクスと一緒に皿に取り、その上からブロードをぐるりと一回しかけてから食べる。それでは、と口に運ぶ。!!!! それは海の果実そのものだった。マリルーが朝からことこと仕込んだブロードをたっぷり吸い込んだ穏やかな海の味だった。シナモンやクミン、生姜の香りは海の向こうのチュニジアの海岸の香りだった(嗅いだことはないが)。ワインはパンテッレリア島のズィビッボから作るふくよかな花の香りを持つ辛口の白ワイン、ミチェッリの個性的な「イルニュム」。アフリカからシチリアへと地中海を越えて跨がる大きな環がここに完成したのである。 なんていうことを考えているとマリルーがにやにやしながら私の顔を見つめている。どう?と一言。美味しい、としかいいようがありません。地中海の宝石であり、いくらでも食べられる。私のクスクス観を見事に覆してくれました。わざわざこの島まで来た甲斐がありました。と答えると彼女は満足そうにうなずいてから、第二の皿を取りに立ち上がった。 第二の皿、肉のクスクスは野菜のブロードで蒸らし、香味野菜と豚、羊、サルシッチャなど好きな肉を一緒に煮込んで食べる。これは一転して真夏の灼けた大地の味。ワインはアグリジェント県のサンタマルゲリータ・ディ・ベッリチェで作られたドンナフガータの「タンクレディ」。合わない訳が無い。 レモンのソルベで口直しした後のデザートはクスクスのドルチェ。これは伝統料理でなく彼女のオリジナルである。オレンジとシナモンの香りのクスクスには細かく刻んだアーモンド、ヘーゼルナッツ、ナツメが入っている。これにオレンジのソースをあわせると酸味と甘味が渾然一体、とても美味しいクスクス・デザートだった。 一見哲学的な風貌を持つマリルー・テッレージは相手がシチリアの歴史や文化、特に食べ物に興味があると分かると胸襟を開いてもてなしてくれる現代風のシチリア女性である。サン・ヴィート・ロ・カポがバカンス客で賑わう日曜の夜、マリルーの料理旅館のテラスはクスクス・ナイトとなる。地中海に沈む夕日を見ながらの食事は異国情緒たっぷりで最高にスペクタクルだという。真夏のテラスで汗を拭き拭きもう一度マリルーのクスクスを食べてみたい。
Pocho(ポショ) Makari, San Vito Lo Capo (TP) Tel0923-972525 www.sicilian.net/pocho 火曜休み 夜のみの営業 木曜日はスペイン料理、日曜日はクスクス 1月半ば〜3月半ば休業 プチホテルもある 予算目安:1人32ユーロ 要予約 Pensione Ca’tarin(ペンシオーネ・カタリン) Viale C.Colombo, ang.Via Don Bartolo,16 Castelluzzo, San Vito Lo Capo (TP) tel./fax 0923-975659 2002年オープン、4室のみの家族経営の小さなペンション。 レストランなし。部屋に冷蔵庫あり。マリルーおすすめ 料金目安:一室二名35ユーロ
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