イタリア縦断鉄道の旅17 地中海文化のるつぼ シチリア島の旅のはじまりは 州都パレルモから
フィレンツェ発パレルモ行きのメリディアナ航空3481便は8時到着の予定が30分遅れ。寝不足の目をこすりつつ機内から外へと目をやれば、荒々しい岩山と青い海、強い日差し、夾竹桃やサボテンといった独特の風景が見える。シチリアである。 こんな時似合う曲はルーチョ・ダッラの「シチリアーノ」以外考えられない。   分かっている、もうすぐ着陸だ きっと誰かが待っていてくれる 目と目が合った瞬間、微笑むことにするさ 俺はシチリアーノ 北アフリカ人でありちょっぴりノルウェー人 ま、とにかくシチリアーノだ   いつもシチリアに上陸するときには必ずテーマ曲として聞く曲だ。シチリアの旅に音楽は欠かせない。特に列車を使って旅するのならなおさらだ。 到着ロビーのバールでまず一杯エスプレッソを飲む。そうすればどんな街でもなんとなく、街の流儀とも呼べる空気が感じ取れるからである。ワークホリックで生真面目なのか、ずぼらで無頓着なのか、景気はいいのか悪いのか。そうした数値化できない街の空気は、バールで数多くのイタリア人をながめることでなんとなくだが想像できるようになってくる。 トレニタリアのプンタ・ライジ駅はパレルモ・ファルコーネ・ボルセッリーノ空港地下にある。本当は8時40分発のトリナクリア・エクスプレスに乗ろうと思っていたのだが、飛行機が遅れたため9時05分の各駅停車レジョナーレでパレルモ中央駅へと向かうことにする。 地下の薄暗いホームに停車中の列車には、レジョナーレとはいえしっかりとトリナクリアが描かれている。これはシチリアの3つの半島を表す三本足とギリシャ神話の怪物ゴルゴンが描かれた島のシンボル。豊穣を表す3本の麦の穂が古来より小麦の一大生産地だったシチリアの繁栄を物語っている。 やがて列車はごとりと定刻通りに動き出す。冬だというのに日差しは強く、窓ガラスを通していても顔がじりじりと熱くなる。 カパーチという駅を過ぎるが、ここは1992年に「カパーチの悲劇」と呼ばれる反マフィアの判事ファルコーネが爆殺された場所。2ケ月後に同じく暗殺された同僚判事ボルセッリーノとともに、2人の名はパレルモ空港に永遠に残されることになる。 車窓の眺めが青い海から小高い岩山ペッレグリーノに変わると終点はもうすぐ。やがて定刻通りの10時5分。パレルモ中央駅に到着する。 数年ほど前までは駅構内にシチリア名物のアランチーノを売る手押し車の屋台があり、到着早々特大おにぎりのような球形のアランチーノを立ち食いしたこともあったが、今はパレルモもシェフ・エクスプレス、昔懐かしい屋台の姿はもう見られない。 パレルモ中央駅は何よりもその建築が素晴らしい。誕生は1885年。バゲリーアやチェンシから運んだ石で作られた駅舎はクラッシコ・リナシメンターレと呼ばれる世紀末の建築様式で、マッシモ劇場などを手がけた建築家エルネスト・バジーレの影響が強いといわれている。ファサードの美しさならばトリノ・ポルタ・ヌオーヴァ駅、ジェノヴァ・ブリーニョレ駅、そしてこのパレルモ中央駅が三本指であろうか。駅前に立つのはヴィットリオ・エマヌエーレ像。統一イタリア戦線の舞台となったシチリアを代表する駅ならではの錚々たる構えである。 10時35分発のアグリジェント行きはミヌエット。今やイタリアのすみずみにまで配備されているこの最新車両のおかげで、イタリア鉄道の旅の快適さは確実に5割は増したはずである。 ミヌエットは住宅街の裏手を通って海辺に出る。バゲリーアからテルミニ・イメレーセへ。このルートはその昔初めてシチリアを旅した時に通ったルート。小さな港町サンタ・フラヴィアのレストランで働く友人を尋ね、パレルモ駅からレジョナーレに揺られて出かけたことがある。 ふと気付くと子供が二人、私の顔をじっと覗き込んでいた。「ブォンジョルノ、シニョーレ」ブォンジョルノ、どうしたの?彼らの名前はクラウディアとジュゼッペ。父親がその名を連呼している。兄のジュゼッペは調子にのって父親に叱られ泣いていたが、妹のクラウディアはこの年でしっかりとずるさと可愛らしさを身につけていた。都合が悪い父親の説教は聞こえないふりをし、時に周囲に媚を売る。いやはや、末恐ろしい少女であった。 テルミニ・イメレーセから先はアグリジェントへ向けて列車は内陸を走る。右はシチリアの大穀倉地帯である肥沃な盆地コンカ・ドーロ。左は伝説のクラシックカー・レース「タルガ・フローリオ」の舞台となるマドニエ。 とにかく右も左もシチリアらしい風景の連続。緑の丘とはいえトスカーナやウンブリアの優しさとは全く異なる荒々しい岩山が次々に現れる。植生はといえばサボテン、オリーブ、ユーカリ、夾竹桃、竜舌蘭。背丈の数倍もそびえる竜舌蘭をシチリアではじめて見た時は、それは驚いたものだった。そうした雄大な風景の中をミヌエットは走り続ける。 こういう風景ではシチリア・オペラのBGMが必要となる。まずは「田舎騎士道」ことマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲。これは「ゴッドファーザーPART3」のラストシーンにも使われた曲で、誇り高きシチリア男の生き様と重なる切ない響きが胸を打つ。続いてヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」から「ありがとう友よ」。これはフランス統治下のシチリアを描いたオペラで、列強支配から立ち上がり、イタリアが独立するきっかけになった作品といわれている。オペラでは激しい旋律のこの曲を合図にシチリア人は蜂起する。アグリジェントの街が見えてきた。 アグリジェントは標高230メートルの小高い丘の上に建つ。その起源はギリシャ時代にまでさかのぼる古代都市でかつては神殿の建設とともに栄えたが、19世紀以降の無秩序な都市計画で、かつての栄華は見る影もない。それまで快晴だったシチリアの空がなぜか一転にわかにかき曇り、アグリジェントの頭上を真っ黒な雨雲が覆い始めた。 アグリジェント・バッサ駅で停車、次いで終点のアグリジェント中央駅。駅に入る直前、車窓からは神殿の谷と鈍く光る水平線が見えた。2時間かけて列車はシチリア島北海岸から南海岸へと島を縦断してきたのである。 定刻通りの12時35分アグリジェント中央駅着。プンタ・ライジ駅から11.25ユーロ。ホテルで素早く荷物を降ろし、バスに乗って神殿の谷に向かう。桜の花に似たアーモンドの花こそまだ咲いていないものの、あたたかな日差しはすでに春を思わせ、冬でも緑を失わない下草の合間にスイートピーが咲く。遠くでは羊飼いが羊を連れて遺跡の向こうをゆっくりと移動してゆく。そして目の前にあるのはギリシャ時代に作られた神殿の遺跡。シチリア時間を体感するのにここのまさる場所はない。ジュピター神殿からカストーロ・ポルックス神殿、そしてコンコルディア神殿。くたくたになるまで神殿の谷をたっぷりと歩く。 ホテル近くのバールで少し早い食前酒、ついでにシチリアの名物菓子カンノーロをつまむ。筒状の揚げ衣の中にリコッタチーズが詰まったこの菓子は一度食べるとやみつきになる。 シャワーを浴びてジャケットに着替え、ホテルから徒歩3分の場所にある「トラットリア・ディ・テンプリTrattoria dei Templi Via Panoramica dei Templi,15 tel0922-403110」に食事に出かける。この店は神殿の谷の入り口にあり、夜にはライトアップされた神殿群が見える。 兄弟らしきオーナーがてきぱきと客をさばき、若いカメリエーレには的確に指示を送る、プロ意識の高い店。料理はアサリ、ブロッコリ、トマトをソースにしたカザレッチェというパスタ。ソースとオイルが完全に乳化した見事なパスタ。セコンドはシチリア全土でよく食べるカジキに粉をまぶしてソテーしたインパナータをとる。これはカジキの活きがよすぎたのか、パスタでいうならばアル・デンテな歯ごたえ。フィッリアートの白ワイン、グリッロを飲む。 翌朝はまだ暗い朝6時にホテルをチェックアウト。タクシーを頼もうとすると「シニョーレ、アグリジェントのタクシーは7時30分以降じゃないと働きませんぜ。前日に予約しておかないと」といわれる。これは気付かなかった。一応無線タクシーに電話してもらうと案の定誰も出ない。やむなく中央駅まで1キロ少々、夜明け前の暗い道を重い荷物をひきずって歩くことにする。 街はまだ眠っていても駅はすでに動きはじめているのはシチリアとて同じこと。駅員が慌ただしく働き、通勤客も徐々に集まり始める。バールには焼きたてのパンが届き、香ばしい匂いをあたりに漂わせている。カプチーノ飲みつつ、ファゴッティーノというパンをひとつもらうと、これが日本でいう調理パン。甘くて柔らかい生地の中に熱々のモッツァレッラとプロシュート・コット、トマトで作ったソースがたっぷりとつまっている。シチリアで食べたい料理は幾つもあるが、こうした手工業的ファーストフードも忘れがたい味である。パン屋から運ばれてきたばかりの熱々を頬張ると、寝不足の身体に力が漲り始めるのが分かる。 切符売り場で「タオルミーナまで一枚」というと初老の職員が「何だって?」と聞き返す。こちらの発音が悪かったのかと「タ・オ・ル・ミー・ナ」と一音ずつ区切るとようやく通じた。すると後ろの客が「パレルモまで一枚」と頼むとまた「何だって?」と繰り返しているのが聞こえた。どうやら相当耳が遠いらしい。切符を改めて見ると頼んだはずのロッカパルンバ経由でなく、遠回りのテルミニ・イメレーセ経由になっていた。タオルミーナまで11.25ユーロ。

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