イタリアの老舗料理店17 トラットリア・アルマンド 創業1957年
フィレンツェ旧市街をアルノ川右岸沿いに西へ向かい、ヴェスプッチ橋を過ぎるとやがて小さな劇場に出る。威風堂々たる新古典様式ではなく、ルネッサンスの控えめな景観になじむようその外観は極めて控えめ。かつては市立劇場「テアトロ・コムナーレ」と呼ばれていたが、現在は毎年五月にフィレンツェで行われる音楽祭の名をとり、フィレンツェ五月音楽祭劇場「テアトロ・デル・マッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーノ」と呼ばれている。例えその名は変われど、つねにフィレンツェの音楽と舞台の中心であることに変わりはない。 フィレンツェはルネッサンス美術発祥の地であるが、オペラ誕生の地でもある。時はメディチ家の治世である一五〇〇年代末。その以前からメディチ家内ではインテルメディオと呼ばれる音楽劇が行われていたが、一五八六年のメディチ家の婚姻の際、現在のウフィッツィ美術館内に劇場が作られ、そのこけら落としとして音楽劇が上演された。これがオペラのはじまりとされている。その後もことあるごとにウフッツィの劇場やピッティ宮殿内でオペラが上演されたが、やがて祝祭都市としての役割はヴェネツィアへ譲り渡すことになる。テアトロ・コムナーレが完成したのはイタリア統一に向けて国中が揺れていた一八五二年。その間戦争と洪水で被害を受けながらもペルゴラ劇場と並び五月音楽祭の中心地としての地位は揺るがなかった。過去に五月音楽祭管弦楽団の常任指揮者をつとめたのはリカッルド・ムーティ、ズービン・メータら。モーツァルト生誕250周年にあたる二〇〇六年二月にはムーティによるモーツァルトのコンサートが行われたので聴きに行ったが、全身を使って美しい音楽を導きだすマエストロの姿は神々しい光に満ちあふれているようだった。 そんな五月音楽祭劇場の近くに、「アルマンド」はある。創業一九五七年で入り口は小さく間口一間。それこそうなぎの寝床のような作りなので外から奥の様子はうかがえないが、古くから劇場関係者が食事に訪れることで有名な店である。祖父アルマンドが始めたのは「ヴィナイオ」と呼ばれるフィレンツェの典型的な居酒屋で、大理石のカウンターにはこもわら瓶のキャンティが置かれ、背後にはワインがずらり。そして天井からは巨大なプロシュートが何本もぶらさがっている、そういう雰囲気の店であった。 こうした「ヴィナイオ」は今もフィレンツェには幾つも残っているが、いずれも立ち飲みで軽いつまみを出す店が多い。「アルマンド」創業当初の名物は、代表的なヴィナイオの味である「クロスティーニ」。これは薄切りのトスカーナ・パンに鳥のレバー・ペーストを塗った一口サイズのつまみだが、当時の「アルマンド」には牛の脾臓をのせたクロスティーニもあった。こうしたつまみが充実し始めるとさらに噂を聞きつけたフィレンツエ人が集まるようになり、娘のジョヴァンナの代には料理を中心としたトラットリアとなる。 劇場関係者が多く訪れるようになったのは、ジョヴァンナの夫、ピエロの功績である。ジョヴァンナと結婚後、ヴィナイオを手伝い始めたピエロは大の音楽好き。劇場関係者との交友も盛んだたことから、当時の市立劇場の舞台がはねた後、出演者たちが「アルマンド」で食事をするのはもはや約束事のようになっていった。そうした伝統は今も変わらず、店内には必ず五月音楽祭劇場の公演ポスターが貼られているし、営業時間前に店を訪れ「今日これから劇場に行くんだけど」と頼んだらと、早めに食事をさせてくれたこともあった。「アルマンド」の壁にはピエロが集めた関係者の写真やサインが小さな額縁におさめられ、誇らしげに飾られている。それは「アルマンド」の歴史であり、宝である。ズービン・メータ、ルチアーノ・パヴァロッティ、小澤征爾。ミラノやトリノにあるような華美の店ではないのに、ピエロが引退した今もこうした関係者が足しげく通うのは、何よりもジョヴァンナが作るシンプルかつ正統的なフィレンツェ料理が素直で味わい深いからであり、サービスを担当する娘のアレッサンドラと叔父のダニエレのもてなしが心地よいからである。 「アルマンド」の名物料理に「スパゲッティ・アッラ・カッレッティエラ」というパスタがある。ジョヴァンナが毎日作り、アレッサンドラもダニエレも毎日のように食べているという家庭の味だ。ニンニクとイタリアンパセリ、当が足を効かせた熱々のトマトソースのパスタは、食後に誰かと会う時は躊躇してしまうけれど、何度食べても飽きないフィレンツェの味。それはシンプルで余分な装飾を一切そぎ落とした料理だからである。ある日、トマトソースの中に入っているニンニクの薄切りを集めてみたら、三房分ぐらいあった。よくレシピ集で「アーリオ・オーリオを作る時はニンニク一房をみじんぎりにして、ゆっくりとオイルで熱し」と書かれているけれど、ここのカッレッティエラはその三倍。パンチある風味豊かなその香りはニンニク好きなら未体験ゾーンに突入すること間違いなしである。 「御者の」という意味を持つこのパスタ、本来はトスカーナの街道筋で客待ち中の御者が、寒さに耐えられるようにとニンニクと唐辛子を効かせたのが始まりだといわれている。ヴィナイオ伝統の味であり、あちこちの店で食べる機会があるが、2日もすればまた食べたくなるのは「アルマンド」のジョヴァンナが作るカッレッティエラである。もうひとつ「アルマンド」の名物が「グラン・フリット・トスカーノ」。これは若鶏、兎、羊の脳、カルチョーフィ、ナスなどの野菜のフリット。若鶏、兎の野趣あふれる味わいもいいが、羊の脳はまた格別の味わい。フィレンツェでも羊の脳を食べさせてくれる店はそう多くないが、揚げたての羊の脳はふぐの白子に似た舌触り。レモンをしぼって熱々を口に運び、トスカーナ産の上質なサンジョヴェーゼを口に含む。レクター教授も好んだ官能的なフィレンツェの味は、一度知ったら忘れられないやみつきになる味である。冬から春先にかけてが旬の「生カルチョーフィのスパゲッティ」は本来ピンツィモーニョ用に生で食べるカルチョーフィをニンニクをきかせた香り高いオリーヴオイルであえて食べる。ほろ苦さがたまらない、冬のフィレンツェの味。 「ペポーゾ」のジョヴァンナの得意料理。これはフィレンツェ大聖堂の丸屋根を作ったブルネッレスキが考案したといわれるフィレンツェ伝統の味である。牛肉を赤ワインで長時間ことことと煮込むのだが、粒のまま黒胡椒を大量にいれてスパイシーな味にしあげるのが特徴。二十四時間体制で現場仕事をしていたブルネッレスキとその職人たちは、昼でも夜でもいつでも食べられるよう、工事現場のレンガを使って竃を作り、いつもこのペポーゾを火にかけていたという。機会があれば五月音楽祭劇場に足を運び、コンサートやオペラの後に「アルマンド」に足を運んでみてほしい。おそらくそこには劇場帰りの着飾った同好の士が何組か見つかるはずだから。ことさら強烈なインパクトを持つカッレッティエラが強調されがちな「アルマンド」だが、実はこうした華麗な一夜を過ごせるエレガントな店でもある。気がつけば隣の席に座るのはリッカルド・ムーティ、もしくはズービン・メータ、なんてこともあながち夢ではない。アフター・シアター第一幕は「アルマンド」から始まる。トラットリア・アルマンドTrattoria Armando(フィレンツェ) Borgo Ognissanti,140r FIRENZE Tel055-216219 www.trattoria-armando.com 12:30〜14:30、19:30〜22:30日曜、月曜昼休
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