イタリアの老舗料理店06 カンティーナ・ド・モーリ 創業1467年
迷路のようなヴェネツィアの街を歩いていると、細い路地の突き当たりに薄暗い電灯がともり、何やら怪しげな酒場に地元の男たちがたむろしている光景に出会うことがよくある。間口一間ばかりの店はカウンターのみ。ガラスのショーケースにはさまざまなつまみが並び、店主は常連客にワインを注ぎ続ける。中にはテーブル席もあって食事できる店もある。これがいわゆるバーカロ、複数形でバーカリである。あるいは地元の人々は「オステリア」と呼び、確かに表に「バーカロ」と書いてある店は確かに少数派。ヴェネツィアの飲食文化の象徴バーカロだが、旅人には少々入りづらいかもしれない。言葉の問題や注文の仕方、何を頼むべきか?などバーカロの流儀に不慣れということもあるが、地元客で一杯の雰囲気があまりにディープであって店はたとえ魅力的でも、入り口で思わずたたらを踏んでしまうこともままある。 ヴェネツィアを歩く時必ず持って歩くのがミケーラ・シビリアという地元の女性が書いたバーカロ・ガイド「Osterie&Dintorni」。約百件のバーカロ&オステリアを紹介していて、バーカロ好きが足で集めた情報だけに的確なコメントも信頼できる。詳細なマップつきなのでバーカロ巡りを志す旅人には強い味方となるはず。とはいえヴェネツィアのバーカロは基本的に店主の個人経営だけにオーナーの姿勢に左右されることが多く、千差万別玉石混淆。しかし「ド・モーリ」は数あるバーカロの中でも別格の正統派であることに疑いはない。 バーカロ密集地区であるペスケリア市場から細い路地をいくつか曲がるとぼんやり電灯がともった「ド・モーリ」がある。創業一四六七年のヴェネツィア最古のバーカロ。それと知らなければ通り過ぎてしまいそうな店構えで、入り口は男2人がすれ違うときに苦労するような狭い観音開き。ドアを開いてみると店内はほとんど闇に近い薄暗さ。巨大な銅鍋が幾つもぶらさがる天井は低く、常連らしき男が数人、静かにワインを立ち飲みしている。大きな酒樽を背後に従えたカウンターにはつまみが並んでいる。やがてカウンターの中の男が音も無く近づいてきて「ご注文は?」と尋ねてくる。BGMは当然無し、聞こえてくるのはワインを注ぐ音、飲む音、そして低く聞こえてくるささやくようなヴェネツィア弁。外界とは隔絶された一種独特なバーカロならではの空気がゆるりゆるりと流れている。それが「ド・モーリ」である。 今回はヴェネツィア滞在中「ド・モーリ」に通いつめることにした。こうした老舗酒場にはそれこそ数十年毎日欠かさず通う常連が多く、店主は酸いも甘いも噛み分けた達人揃い。一、二度訪れただけで本質は見えてこない。一日目の昼時。観音開きのドアを押して入ると「ド・モーリ」はすでにヴェネツィア男たちで満員だった。黒板に手書きされたメニューによるとグラスワインが約三十種。ハウスワインの白赤、氷一杯の大きな銅鍋で冷やされた地元ヴェネト地方産の発泡性白ワイン、プロセッコ二ユーロ。同じく発泡性の白、カルティッツェ二・八ユーロ。最も高いワイン、リボッラ・ジャッラが四ユーロ。チケーティと呼ばれる各種つまみ、「フランコボッロ=切手」という名の一口サイズのサンドイッチはともに一ユーロぐらいからさまざま。男たちの背中の間を縫うようにしてカウンターに近づくと、そこに立つのは揃いの黒いセーターを来た男が二人。短髪のほうが目で問いかけてくる。彼がルーディ。 「プロセッコ」と告げるとルーディは無言でうなずき、小さなグラスに一杯ヴェネト産の発泡性白ワインを注いで渡してくれる。同時にショーケースの中のミートコロッケ「ポルペッティーナ」をひとつもらい、混んでいるので3分で立ち去る。陽も暮れた冬の夕方、暗い路地裏に明かりが灯るころがバーカロが最も怪しく光る時間帯。夜の「ド・モーリ」は一層雰囲気を増し、思わず生唾を飲み込むような緊張感が漂っている。本日二度目の訪問。客はゼロである。ややほろ苦いヴェネトの発泡性赤ワイン、ロボーゾをもう一人の相方ジョヴァンニからもらい、ついでにツナの辛口ソースのフランコボッロ「サルサ・ピッカンテ」を。さらにロボーゾをもう一杯もらい、返す刀でイタリア風オムレツ・フリッタータ。しめは楊枝に刺したチーズ・プロヴォローネ。チケーティと呼ばれるこうしたつまみは酒のあてなのでどれも味付けはやや濃い目。昼に続いての入店なので帰り際にルーディに「グラッツィエ・ボナセーラ」と微笑みかけられる。 翌朝目が覚めて窓を開けるとヴェネツィアには雪が降っていた。それでも朝十時に「ド・モーリ」へ。すでに市場で一仕事終えたような男衆が白い息をはきながらワインを飲み、フランコボッロをつまんでいる。ルーディとジョヴァンニは今朝も早くから普段と変わらない姿勢でカウンターに立っている。ルーディが「チャオ」と声をかけてくれたので「チャオ」と返す。この店では顔を覚えられると「チャオ」と挨拶してくれるようである。いつものようにプロセッコを頼み野菜のポルペッティーナをつまむ。赤ワインに変え、アーティチョークやゆでタコなどのチケーティをつまみはじめたところフランス人の観光客が二十人ばかりどやどやと集団で入店、一気に騒がしくなってので早々に立ち去る。雪残る夕方、四度目の「ド・モーリ」へ。プロセッコ、ロボーゾ、メルローを飲みながらフリッタータ、ポルペッティーナ、ペコリーノ。雪のせいか店も空いていたので三十分ほど長居、帰り際に明朝また来ると告げると「お待ちしてます」との答え。店を出るとまだ十九時半だというのに、あたりは人通りも途絶え、霧が漂う寒い寒いヴェネツィアの冬の夜。 翌朝ルーディが語ってくれたところによると「ド・モーリ」の歴史はこうである。創業は一四六七年というから遥か五百年以上前。店名の「ド・モーリ」とはヴェネツィア弁で「二人のムーア人」を意味するが、これは創業者が二人の異国人だったことに由来するという。いかにもヨーロッパ最先端の国際都市だったヴェネツィアらしい逸話である。当時の「ド・モーリ」はワインを作る醸造所兼居酒屋で、店名に「カンティーナ」と残るのはその名残。かつては店の前まで水路が続いていてぶどうの積み降ろし、ワインの積み出しに賑わっていたという。現在のような立ち飲み専門のバーカロスタイルになったのは一九六六年。ヴェネツィアを大洪水が襲った年のことだった。一九六六年十一月四日午後六時、降り続けた雨の性で水位は一メートル九十センチ上昇し、水上都市ヴェネツィアは大打撃を受けた。浸水したサン・マルコ広場、店、住宅、バーカロ。時折ヴァネツィアの街を歩いていると洪水当時の古いモノクロ写真をみかけることがある。 洪水で大被害を受けた「ド・モーリ」再建に乗り出したのは先代の経営者ロベルトで、当時まだ二十四才。古い資料や書類などを泥の中から拾い集め、店の内装はほぼ昔のままに再建。今度はカウンターのみのバーカロとして再出発した。以来一九七七年に引退するまで四十年間に渡り「ド・モーリ」の歴史を築き上げてきた、ヴェネツィアのバーカロ史上に残る男だった。晩年のロベルトとともにカウンターに立っていたのがルーディである。有名ファーストフード店店長をしていたが一気に方向転換してロベルトのもとで働き始め、ロベルトの引退後は現在のパートナー、料理人ジョヴァンニとともに毎日朝から晩までロベルトがしていたようにカウンターに立つ。口の悪いヴェネツィア人は「ド・モーリは変わってしまった」と嘆くけれど、常連が今も変わらず朝からグラス片手にカウンターにもたれ、伝統を受け継ぐ男たちがいる限り「ド・モーリ」はまだまだヴェネツィア一の正統派バーカロの座を守り続けるはずである。カンティーナ・ド・モーリCantina Do Mori(ヴェネツィア) San Polo 429, Calle dei Do Mori,VENEZIA Tel041-5225401 8:30〜20:30日曜休
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