イタリアの老舗料理店09 グラッペリア・ナルディーニ創業1779年
ヴェネツィアからローカル線の各駅停車に乗ること約一時間二十分。ヴェネト平野の鄙びた風景を車窓に眺めていると、やがてドロミティ渓谷の南裾野にある山間の町バッサーノ・デル・グラッパに着く。この町はイタリアを代表する食後酒「グラッパ」の聖地である。古い城壁に囲まれた旧市街への入り口、グラッツィア門にあるバールでカプチーノを飲んでいると、風景画のように切られた窓からは山頂に雪を抱いたグラッパ山が見えた。標高一七七五メートル、イタリア語でモンテ・グラッパ。同名の有名な万年筆メーカーもこの町に本社がある。第一次大戦中は対オーストリア戦線の本部が置かれた最前線にして激戦地。赤十字要員としてイタリア軍に従軍した十九才のヘミングウェイはバッサーノ・デル・グラッパ近郊のピエヴェ川で負傷。その体験は「武器よさらば」の下地となり、「川を渡って木立の中へ」の舞台となるカ・リッツォは今もモンテ・グラッパ社脇にある。その「武器よさらば」の中にこんなシーンがある。「ストレーガじゃないだろうね?」ぼくはきいた。 「ちがう。グラッパだ」 「そんならいい」 彼は二つのコップについだ。二人は、人さし指をのばしてコップを触れあわせた。 グラッパはひどく強かった。(新潮文庫/大久保康雄訳)グラッパとはワインを醸造した後に残るぶどうの皮や種を使った蒸留酒で、アルコール度数は三十七・五度から六十度程度。法律では最低アルコール度数が定められているが最高はその範疇でないという強い酒である。「グラッパ」というその名はこの辺りの地名に由来するのでなく、ぶどうの房を意味するイタリア語「グラッポロ」から来ている。 旧市街から坂道を下っていくと、やがて古い屋根付きの橋に出る。これが十三世紀に完成した木造のアルピーニ橋、別名ヴェッキオ橋。中世の頃はブレンタ川にかかる唯一の橋として町の発展に大きく貢献したが、交通の要所にあるため度々戦火にさらされ、洪水や戦争で少なくとも八回は破壊されたといわれている。現在我々が目にする美しい姿は建築家パッラーディオが一五六九年に設計したもの。バッサーノ派の画家ロベルト・ロベルティが描いた今と寸分違わない十八世紀のアルピーニ橋の絵は現在市立博物館におさめられている。その橋のたもとにイタリア最古のグラッパメーカー「ナルディーニ」が経営するグラッパ酒場「グラッペリア・ナルディーニ」がある。創業は一七七九年。ぼんやり灯る電灯の下には小さな観音開きの扉がひとつと、鉄格子のはまった小さな窓がひとつだけ。外観は至極質素な作りだが、いざ扉を押して中に入ってみると、古びた木のカウンターの向こうにはグラッパの瓶がずらり。黒光りする天井や古い蒸留器具から発散されるその圧倒的時間感覚に思わずたじたじとなる。窓の向こうに見えるのは青く輝くブレンタ川。まさに橋とともに町の歴史を見守り続けてきた生き証人である。 「ナルディーニ」の本社は酒場の奥にある。創業者バルトロ・ナルディーニがわざわざ橋のたもとに蒸留所兼酒場を開いたのは、まず第一に原料となるぶどうの搾りかすの運搬や商品の発送などに川が必要だったこと。そして、蒸留作業には水が必要だったこと。実際酒場の地下へとおりてゆくと昔の蒸留施設や貯蔵庫などが残っているが、ヴェネツィア同様一九六六年の洪水の際にかなりの被害を受けたと、案内してくれた広報のジョヴァンナ・カプリオッリオ女史が説明してくれた。彼女と橋の地下にある社内を歩いていると、現当主ジュゼッペ・ナルディーニ氏に会った。来年で八十才を迎える紳士にして現役の会長。イタリア中の老舗ホテルやレストラン、カフェなどが加盟する「イタリア老舗協会=ロカーリ・ストリチ・ディ・イタリア」の会長も兼任するイタリア老舗界の大御所である。丁重に挨拶して「グラッペリア」へと向かう。最上階である酒場はまだ朝十時前だというのに、一杯やりにきている常連の紳士が数人。なにやらタンブラーに注がれた赤いカクテルのようなものを飲んでいる。尋ねると「メッツォ・メッツォ」つまり「半々」という意味のカクテルだという。 勤続二十二年のベテラン・バールマン、アドリアーノが教えてくれたレシピによると。「ナルディーニ」特製のリキュール「ロッソ」と「ビアンコ」を同量注ぎ、炭酸水で割る。アルコール度数は低く約七〜八パーセント。レモンスライスを浮かべて飲む。伝統的に氷はなし。ほろ苦く、うす甘いバッサーノ風カンパリソーダである。グラッパ酒場に毎日通って五十年という常連紳士からこれも試してみろ、と「アペリティフ」をごちそうになる。これは「ロッソ」の炭酸水割。ヴェネツィアでは白ワインを炭酸水で割った「スプリッツ」というカクテルをよく飲むが、それに似てアルコール度数もワインより低いのでカウンターにもたれて知人と一杯おごりおごられしながら飲むのにちょうどいい。とはいえここはグラッパの町。朝からグラッパを飲む豪傑も多いという。氷点下を下回るようなヴェネト地方特有の寒い霧の朝、気合いを入れて仕事に出るにはグラッパが必要なことがままある。熱々のエスプレッソやカフェ・ラッテに入れる手もあるが、生のまま一杯ひっかけてまた外へと出て行く男も多い。 激寒の町を歩けば体内で即座に熱となって昇華する。冬のグラッパは嗜好品でなく、外で働く男の必需品なのである。ちなみにこの「グラッペリア・ナルディーニ」はヴェネツィアのバーカロと違ってつまみの類いは一切なく、あるのは子供連れのために用意された甘い菓子トッローネのみ。それは本来のグラッパ・メーカー直営酒場という姿勢を貫くためであり、客が長居して酔わないためでもある。 最後にバッサーノ・デル・グラッパの食事情を少しばかり。「メッツォ・メッツォ」の後、軽く食べたいなら橋の反対側にある「タヴェルナ・デル・バッサーノ」がいい。ヴェネト産のグラスワインと地元産のサラミ、生ハム、チーズなど。シンプルだけれど上質な昼食が楽しめ、地階にある郷土博物館では戦時中の町の歴史を知ることができる。旧市街にある「ビッレリア・オットーネ」は創業一八七〇年とこちらも古いビアホール。現在は郷土料理のレストランとなっていて昔風インテリアを眺めつつ優雅なサービスでヴェネト料理を満喫できる。「ホテル・ベルヴェデーレ」のダイニング「ベルヴェデーレ」は家族経営のクリエイティヴ・ヴェネト料理の店。ホテルも暖かなサービスで居心地が良い。その「ホテル・ベルヴェデーレ」を出て月夜に輝く城壁を見ながら、すぐそばの「グラッペリア・ナルディーニ」二号店に行く。本店ほどの歴史はないが、夜十時過ぎに店に入ると立ち飲みの若い男ばかりが数十人。カウンターで黙々とカクテルを作るのは本店のアドリアーノと同じグレーの制服を身につけたベテラン・バールマン。 一人カウンターに近づき「メッツォ・メッツォ」を注文、次いで「アペリティフ」。さらに熟成タイプのグラッパを頼むとショットグラスの淵ギリギリにまで注がれた琥珀色のグラッパが出てきた。これを三口で飲み干し、隣の客が「ナルディーニ・ブランディ」を頼んだのでこちらもそれに従い、同じくショトグラスになみなみと注がれたブランディをすする。これでお勘定は合計八・四ユーロ。一杯いずれも一・六ユーロ(約二百三十円)と非常に良心的。二十分で店を出る。すると店の外では頬を切るような寒さの下、店に入りきれない立ち飲み客で大にぎわい。氷点下近いというのにグラッパの本場の夜はまだまだ宵の口なのである。
グラッペリア・ナルディーニGrapperia Nardini(バッサーノ・デル・グラッパ) Ponte Vecchio,2 Bassano del Grappa(VICENZA) Tel0424-227741 www.nardini.it 8:00〜20:00 無休
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