Osteria Francescana紺藤敬彦インタビュー

「オステリア・フランチェスカーナ」のシェフ、マッシモ・ボットゥーラは、以前こんな話をしてくれたことがある。ある夜、すきや橋次郎で食事していた時のことである。小野二郎さんが寿司を食べているボットゥーラをじっとみつめ「あんた、前世は日本人だな」と言ったそうだ。この点についてボットゥーラは真剣に考えた。

「二郎がいうように、おそらく自分の前世はそうなんだろうと思う。だから日本との関わりは深く、フランス人でもなく、アメリカ人でもなく、日本人のタカを自分の右腕として選んだんだ」と語ってくれた。タカとは現在「オステリア・フランチェスカーナ」でスーシェフをつとめるのが紺藤敬彦さんのことだ。

紺藤さんは、日本初め世界中からイベントや表彰式にひっぱりだこのボットゥーラとともに世界を旅し、またボットゥーラ不在時は「オステリア・フランチェスカーナ」の代表として厨房の若いスタッフをリードし、店全体を指揮する。「オステリア・フランチェスカーナ」の名声は紺藤さんの存在なくしてはありえなかった。

人と同じことはやりたくないとイタリア料理を志す

高校卒業後、とにかく人と違うことをしたくてヘアメイク志望だった紺藤さんに、子供の頃から料理が好きだったんだから料理の道へすすむようアドバイスしてくれたのは両親だった。

「父も兄も昔から母の料理をなんでも美味しいといって食べてたけど、僕はそうじゃなくていつもなんだかんだいってたようです。母も僕に料理作るのはいやだといってました。その頃はピッツァとスパゲッティぐらいしか知らなかっったけれどとにかく人とは違うことがやりたくて、とイタリア料理を選びました」

最も影響を受けたのは「ヴァルダルノ」シェフ、イタリアから帰って来たばかりの石川淳太さんだ。石川さんからイタリアの話を聞きながら働くのは新鮮で、イタリア料理やってるのにイタリアを知らないわけにはいかない、とイタリア行を決意。一度イタリア修行から帰国した後、2004年に26才で再度イタリアに渡った紺藤さんはミラノの「サドレル」で働き始める。そんな時期マッシモ・ボットゥーラのを知ったのだ。

「あのころのマッシモはエスプレッソ誌で表彰された注目のシェフでした。興味を持って一度食べに行ってみると、もちろん美味しかったし、人とは違うことをしているのがすぐに分かった。僕も人と違うことをやりたくてイタリアに渡ったんです」

まもなく紺藤さんはボットゥーラの元で働き始める。一度スペインで働こうとボットゥーラの説得にも応じず店を辞めたが結局スペイン行はならず、再度ボットゥーラの元に戻った紺藤さんだが3ケ月ほど口をきいてもらえなかったそうだ。

ボットゥーラとともに2つ星、そして3つ星を獲得

紺藤さんと同時期に「オステリア・フラチェスカーナ」に入ったのが現在紺藤さんと同じくスーシェフをつとめるダヴィデと、後に独立してミラノに「TOKUYOSHI」を開店、わずか10ケ月で一つ星を獲得した徳吉洋二さんだ。紺藤がボットゥーラとともに働くようになってから「オステリア・フランチェスカーナ」は1つ星から2つ星、そして2012年にはミシュラン3つ星を獲得。3つ星記念して当時のスタッフが壁に残した寄せ書きには、紺藤敬彦と日本語で堂々と書いてある。

「オステリア・フランチェスカーナ」で働き始めた時はこんなに長くいるとは思いませんでした。少し働いたあと日本に戻るのかな、と。でもいまは日本に帰るイメージが全くない。マッシモはつねにいいます。自分が学び、吸収したことを表現することができれば、どこにいようと関係はない。イタリアでも、日本でも、世界中のどの国でも。それよりも大事なのは自分がどこから来たか、なにを背負っているか、を認識するということ。つまり自国の文化を認識することが重要で、文化の無い料理には何も残らないのです。」

現在「オステリア・フランチェスカーナ」には働きたいというメールが毎日届き、時には世界中から集まる研修生たちが40人を超えることもある。紺藤さんはそうした若者たちにイタリア料理を教え、料理人とは何かを教える役も担っている。現代の若い料理人の卵たちはテレビで見るスターシェフの姿に憧れて料理の道を選ぶものも多いが、そんな簡単ではないという。

「僕たち30代の料理人はマッシモのようなトップシェフと、それに憧れる若い料理人たちの中間にいます。そんな彼がどうなるかは僕たち次第ではないでしょうか。テレビに出て大活躍するのが料理人じゃない。いまマッシモが取り組んでいるのは廃棄食材を無くす料理。それは僕らが若い人たちに伝えないといけないし、そういう料理が将来スタンダードになるかもしれない。いま僕は「オステリア・フランチェスカーナ」に集中しているので、40代にどうするか具体的に考えていません。でも仮に自分のレストランをやるとしたら、大事なのは自分が学んだものや食の大事さ、食文化を伝えるということ。自国の文化を伝えるというのは本当に難しい。でもイタリアにいる日本人としては、イタリアで日本の食文化を伝えながら仕事する、それが大事だと思います」

インタビューの場に最後に現れたマッシモ・ボットゥーラはいつもの調子でこう熱く語った。

「わたしが思う世界3大料理大国とはイタリア、フランス、日本だが、イタリアと日本は特に食材に厳しいという点で共通している。そしてタカもやはり食材に対し、そして自分に対しても厳しい。直感で働く、これは日本人にとって難しいことだがタカはそれを学んだ。タカには10年前に新しい料理、 Pasticceria salata(料理的ドルチェ)の道を切り開いてもらった。それは非常にアヴァンギャルドな試みだった。料理を創造するには直感が必要なのであり、失敗した時にこそ成功のヒントがある。暗闇の中に光を見いだす作業が重要である。日本人は仕事に厳しく、こだわ りも強いが直感的な仕事が苦手。しかしタカは直感的で、台本の無い仕事の仕方をイタリアで学んだ。十二年間世界中旅していろいろな料理を食べ、議論してお互いの考えを共有できた。タカが自分にもたらしてくれたものは多いが、何より大事なのはそうした時間の共有なのだ。」

料理
Miseria e Nobilita「貧しさと貴さ」
2015年ミラノ万博のテーマであったフードロスを主題にした料理。生ハムの骨とパルミジャーノの皮でとったブロードを飲むながら牡蛎をつまんで味わう。骨や皮という廃棄対象の食材に光を当てて味を引き出す。貴と貧のコントラストだが、実はブロードにこそ価値があるという料理。

Yellow is bello「イエロ・イズ・ベッロ」
「黄色は美しい」という紺藤さん考案のドルチェ。イタリアでは3月8日「女性の日」に女性にミモザの花を贈る習慣がある。「酸味が好き」という紺藤さん考案のドルチェで、レモン、黄色=女性をイメージし、レモンを使った現代アートに着想を得た。

TAKAHIKO KONDO
1978年9月14日東京都足立区生まれ。九州出身で料理上手の祖母 の影響で小さい頃から料理にはうるさい子供だったという。高校卒業後イタリア料理の道に進む。「ヴァルダルノ」ではピッツァイヨーロも経験。2001年に 渡伊、トスカーナとヴェネトで働いた後一度帰国するも2004年に再度イタリアへ。「サドレル」勤務後、現在「オステリア・フランチェスカーナ」で同僚のダヴィデとともにスーシェフを務める。

Osteria Francescana
Via Stella,22 MODENA
Tel+39-059-223912
昼12:30〜、夜20:00〜 日、月、8月中旬休
コース €110〜(税・サ込み)
www.osteriafrancescana.it

初出:料理王国2016年7月号、一部加筆