サルデーニャ!1 サント・エフィジオの聖なる行進(無料公開)
サント・エフィジオといえばカリアリでは泣く子も黙る街の守護聖人である。毎年5月1日にカリアリ周辺で行なわれる「サント・エフィジオの祭り」は州都カリアリのみならず、サルデーニャ全土の町々村々から伝統衣装に身を包んだ信者が集まるサルデーニャ最大にして最も崇高な祭りで、その光景を死ぬ前にせめて一度は瞳に焼き付けんと集まる人の数は信者、住民、観光客などなどあわせて約十万人。カリアリ市の現在の人口が約十五万八千人、島全体でも百七十万人弱だから、この時期のカリアリには街のキャパシティの限界ぎりぎりの人々が集まり、街では祭りの準備が全てに最優先される。市内中心部のあらゆる交通は制限され、仮設スタンドの設営と電飾の飾り付けが大詰めを迎える頃、街の老人は孫の手をひいてご本尊が眠るサント・エフィジオ教会へ向かい、若者たちは普段と違う街の雰囲気にわくわくしながらその時を待つ。聖なる祭りを翌日に控えたカリアリにはそんなちょっと危ない濃密な空気が満ちていた。 カリアリで宿にしたのはサント・エフィジオ教会に近く、植物園からわずかな距離にある小さなB&B。そこの若主人マウリツィオが「祭りの期間、市内を車で移動するのはやめたほうがいい。この時期車が増えるし、市内は通行制限だらけ。そもそもサント・エフィジオの祭りというのはカリアリ市民にとって一番大事な祭りで・・・」と手はもちろんのこと、口も止めずに朝食の準備をしてくれた。 イタリア本土に比べると寡黙な男が多いサルデーニャ人にしては物腰も柔らかく、都会的。背も高いしノリもきわめてラテン的なこのマウリツィオ、親切なのはいいのだが、話が長いので聞いてるうちにそもそも何の話をしていたんだっけ?と思うことしばしば。自家製の花梨やブドウ汁を煮詰めたモスト・コットの朝食に気をとられていたこともあり、この時どうも大事な注意を聞き漏らしてしまったようで翌日大いにあせることになるのだが、そんなことまだ知る由もなかった。マウリツィオの助言を守り、旧市街を歩いて回る。カリアリはサルデーニャの南端に位置し、緯度的にはナポリよりもまだ南、カラブリア州のコセンツァやクロトーネあたりと同じ南イタリアである。 地中海全体でもシチリアに次いで二番目に大きな島であるサルデーニャは、古代において北東部にイタリア本土からエトルリア人が、西部にはバレアレス諸島経由でスペイン系の民族が、そしてカリアリを含む南部にはアフリカ系民族がやってきてその痕跡を残したとされているが、最初にサルデーニャに文明を伝えたのは新石器時代の紀元前6000年頃、西アジアからやってきた民族だったといわれている。このアジア系民族は高度なオリエント文明を島に伝え、現在もサルデーニャに残る巨石文明の遺跡ヌラーゲはこうした先史時代のアジア的工法に基づいて造られたものだという。と、これらは全て街歩きの途中、ローマ通りにあるUBIK書店で購入したカリアリ大学のフランチェスコ・チェーザレ・カズーラ教授の著書「La Storia di Sardegna」からの抜粋である。 さて、そのカリアリ。古代ギリシャ語ではカラレス、ラテン語ではカラリスと呼ばれていたが、紀元前5世紀にカルタゴ人が渡来すると、地中海交易の重要な拠点として街は急速に発展しはじめる。カリアリの他に当時から存在していた重要な街はビティア、スルチ、タッロス、ボーザ、トッレス、オルビア、ノーラ。その頃古代ギリシャ語でサルデーニャはイックヌーサIchnusaと呼ばれていたが、現在サルデーニャの地ビールにこの名が残っており、カリアリを初めて訪れた旅人が最初に覚えるサルデーニャ語の一つである。やがて第一次ポエニ戦役でカルタゴがローマに敗れると、サルデーニャは紀元前238年コルシカとともにローマ領となり、ローマ化が始まる。今も旧市街に残る円形闘技場アンフィテアトロはこの時代の遺跡である。 西ローマ帝国滅亡後のカリアリはビザンチン、やがてピサの支配下に入るが、13世紀に街の高台に作られたピサの要塞は今日も残り、街を高台のカステッロ地区と、港に近い下町チッタ・バッサに分けている。その要塞は文字通り街のシンボルであり、サルデーニャ弁でカステッドゥ(カステッロ)といえばすなわちカリアリのことをさすのである。 そのカステッロからほど近い路地裏にサント・エフィジオ教会がある。祭りを前日に迎えたこの日、教会前の広場にはすでに信者が集い、家々の窓からは赤白緑のイタリア国旗が風になびいていた。教会の入り口ではロザリオやサント・エフィジオの御神体が描かれたお札が売られ、みな続々と教会へ入ってゆく。彼らに続いて教会に足を踏み入れてみると、すぐ正面に聖人像を収める八角形のガラス・ケースを乗せた牛車コッキオがあり、信者が真っ赤なカーネショーションで飾り付けていた。 サント・エフィジオの像は教会右奥の礼拝堂にある。教会内にサント・エフィジオ像は3体あるが、祭りの行進に使われるのは十七世紀に作られた聖人像で、若いスペイン貴族風の装い。殉教者にしてはおだやかな顔つきで口ひげを蓄え顔もふくよか。右掌には赤い十字の聖痕跡が刻まれ、左手には黄金のヤシの葉を握りしめている。信者たちの手によって祭り用の衣装を着せるヴェスティツィオーネの儀式もすでに終わり、幾つもの金細工で全身を飾り立てられており、その前ではひざまずいて街の守護聖人に祈りを捧げる老婆の姿があった。 エフィジオは250年頃、エルサルム市内にあったローマ植民地エリア・クリプターナで生まれたとされる。父はキリスト教徒クリストフォロ、母は貴族の出で、多神教を崇拝していたアレッサンドラ。夫が亡くなると、アレッサンドラはアンティオキアにあったローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮廷にエフィジオを連れてゆき、エフィジオは皇帝の近衛兵となる。このディオクレティアヌス帝は、帝国が内乱状態に陥った軍人皇帝時代を収拾し、広大な領土を四分割して専制君主制を導入した皇帝であり、キリスト教徒を迫害したことでも名高い。 やがて士官となったエフィジオにはキリスト教徒攻撃のため、イタリア遠征の任務が与えられる。こうして軍を率いてアンティオキアからイタリアに渡ったエフィジオだったが、ナポリ方面へ(ブリンディジ方面という説も)向けての行軍中、突然の閃光に目がくらんで落馬した。するとどこからか「私はキリスト、お前が従う者である」という声が聞こえてきたという。 エフィジオがふと見ると、右掌にはいつの間にか十字架型の聖痕がくっきりと刻まれていた。サント・エフィジオ像の右掌の十字はこの時の聖痕を表しているのである。この奇跡に心を動かされたエフィジオは行軍の途中港町ガエタで洗礼を受けてキリスト教徒となり、改宗したことでキリスト教徒攻撃部隊から外されてサルデーニャへ送られることになる。サルデーニャでの任務は羊飼いの戦士イリオス人の鎮圧だった。 伝説によれば、このイリオス人とは故国滅亡後の紀元前1000年頃サルデーニャに渡って来たトロイの末裔である。サルデーニャ北部のリンバラ山からゴチェアノ山地を領土として当初はカルタゴ人と戦い、第一次ポエニ戦役後サルデーニャがローマ領となった後はローマ軍に対しても抵抗を続け、幾度となく鎮圧部隊と戦って来た。紀元前174年には約8万人が殺害、または奴隷として売られる大弾圧が行なわれたが、生き延びたイリオス人は現在のバルバージア地方へと逃れる。山深く、今も独自の文化が残るサルデーニャ中部のバルバージア地方とは「野蛮な土地」という意味だが、それはローマ人でさえ支配することができなかった未開の地を意味したのである。 エフィジオはサルデーニャに到着するとまずはタッロスで任務につき、続いて軍司令部があるノーラに移った。するとエフィジオはすでにディオクレティアヌス帝からキリスト教徒弾圧の勅令が発せられていたにもかかわらず福音を説いて回り、逆にディオクレティアヌス帝に直接手紙を書き、キリスト教への改宗を迫った。こうした一連の行動でエフィジオはカリアリに召喚され信仰を捨てるよう強要されたが拒否。逮捕されて地下牢に閉じ込められた。現在のサント・エフィジオ教会はこの地下牢の上に建っている。 エフィジオはこの地下牢で拷問されても信仰を捨てなかったため、総督はキリスト教徒への見せしめのため火あぶりの刑を命じる。しかし処刑の業火はエフィジオを焼かず、逆に火を放った死刑執行人を襲った。そこで今度は斬首刑が命じられる。キリスト教徒の反乱を恐れ、処刑の場所はカリアリから離れたノーラの海岸で行なわれた。286年1月15日、海岸にひざまずいたエフィジオはこう神に祈ったといわれている。
“Ti prego,Signore,di proteggere la citta’ di Cagliari dall’invasione dei nemici. fa che il suo popolo abbandoni il culto degli Dei, respinga gli inganni del Demonio e riconosca Te, Gesu’ Cristo Nostro Signore,quale unico vero Dio. Fa che i malati che pregheranno sul luogo della mia sepoltura possano recuperare la salute, e chiunque si trovi in pericolo nel mare o minacciato dagli invasori, tormentato dalla fame e dalla paste, dopo aver invocato me, Tuo servo, possa essere condotto in salvo.” ”主よ、お願いです。カリアリの街を敵の侵略からお守り下さい。カリアリの民に他の神々への崇拝をやめさせ、悪魔の策略をはね返し、あなたのことを認めるようにさせて下さい。イエス・キリスト、我らの主よ、唯一の真の神よ。私が埋葬されるこの地に祈りを捧げる病人たちが健康を取り戻すように。海で危機に出会う者、侵略者に脅される者、飢えやペストに苦しむ者が、あなたの僕たる私に祈りを捧げたならば、救済へとお導き下さい。”
カリアリの安全を願いながらノーラの海岸で殉教したエフィジオは、後に聖別されてカリアリの守護聖人サント・エフィジオとなる。 時は流れてスペイン支配時代の1652年、黒死病とよばれたペストが史上初めてサルデーニャを襲う。アルゲーロ近郊ポルト・コンテに着いた船の積み荷が感染源だったとされているが、ペスト禍は南下を続けてカンピダーノ地方からやがてカリアリに達する。ペストの嵐は4年間続いた。未曾有の災厄に見舞われたカリアリでは一日に二百人も亡くなる日もあったが市民には抗うすべは無く、唯一残された希望が街の守護聖人サント・エフィジオがおこす奇跡だった。 サント・エフィジオ教会の地下牢から聖人像を担ぎ出した信者たちは殉教の地ノーラの海岸まで聖人像を運んで祈りを捧げ、再びカリアリまで聖人を運んでミサを行なった。この時に行なわれた聖なる行進が、現在も行なわれているサント・エフィジオの祭りの起源である。カリアリ市民の切望を一身に集めたサント・エフィジオ像は大聖堂カテドラーレの主祭壇に祀られる。それはカリアリの盾となり、矛となって絶望と闘う伝説の聖人が復活した瞬間だった。長く苦しい4年間だったが1656年、ようやくペストが終焉を迎えるとカリアリ市民はサント・エフィジオに感謝の祈りを捧げ、翌年には盛大な祭りを行った。 この祭りにはカリアリ市民だけでなくサルデーニャ中から信者たちがパンやチーズ、菓子など供物を持って集まった。サント・エフィジオはカリアリだけでなくサルデーニャ全土をペストから救ったのだ。この祭りは以後毎年5月1日に行なわれ、今年(2009年)で352回目を迎える。 教会を出てイエンネ広場へ向かうとサルデーニャ名物の菓子トローネを売る屋台が出ており、テラス席を出したカフェはどこも満員。友人同士で酒を酌み交わし、家族で手をつないで散歩する姿は厳かな、というよりはどこか楽しげな祭り前夜といった雰囲気。広場の中央で伝統衣装に身を包んだ男4人組が肩を組んで歌っているが、これは俗にテノーレスともいわれるサルデーニャ独特のカント・ア・テノーレだ。モンゴルのホーミーのように口腔内に音を響かせ、楽器は無く声だけで節をつけて歌うその姿はいわばサルデーニャ版クワイヤ・ボーイズ。現在はユネスコの「人類の口承および無形遺産の傑作」に指定されている。 「ビンビーンビビン、ベンベーンベベン」と腹の底に響くような重低音はやはり羊飼い文化の象徴で、その起源はローマ時代以前ともヌラーゲ期ともいわれている。ショップが並ぶマンノ通りから、19世紀に作られた見晴らし台サン・レミ稜堡に上ると、高台にあるカステッロ地区が始まる。このあたりは中世にピサが要塞化した旧市街で道は狭く、カステッロの北の入り口サン・パンクラツィオの塔まで1キロほどの狭いエリアに住宅が集中している。こうした曲がりくねった細道をしばらく歩くとやがて大聖堂に出る。これもピサ支配時代の建築で17世紀から18世紀にかけてバロック様式に改築された。サン・パンクラツィオ門を出て、古代ローマの円形闘技場アンフィテアトロから植物園へと続く下り坂を歩いてゆくと再びイエンネ広場に戻る。 明日の祭りのコース上にある「ラ・ヴェッキア・トラットリア」で夕食にカタツムリのトマト煮込みとサルデーニャを代表するパスタ、フレーグラのパエリア仕立てを食べ、スルチシの赤ワインを飲む。店を出るとすでに陽はとっぷりと暮れているが広場の狂騒はまだまだこれからが本番。カルロ・フェリーチェ大通りには第352回サント・エフィジオ祭り、と書かれた電飾がともりカリアリの夜空を明るく照らしていた。

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