サルデーニャ!17サン・ピエトロ島のマグロとリストランテ・アル・トンノ・ディ・コルサ(無料公開)
マグロは、地中海に浮かぶサルデーニャとシチリアにとって重要な産物である。春先、スペインのジブラルタル海峡から地中海に入ってきたマグロの大群はいくつかの群れに分かれ、その一部が初夏にイタリア付近までやってくる。リグーリア海からコルシカ、そしてサルデーニャの西側へと南下する群れを狙って、北はポルト・トーレス、アシナーラ島から南はポルトスクーゾ、サン・ピエトロ島まで、各地から船が出漁する。大きいもので200キロを超すマグロを獲るには、大勢の人間が大掛かりな仕掛けで臨まねばならない。そして激しく抵抗するマグロを押さえ込むには、決死の戦いを覚悟しなければならない。 マグロ漁の手法は11世紀にアラブからシチリアに、その後、15世紀にスペインからサルデーニャに伝わったという。19世紀には地中海の各地で盛んにマグロ漁が行われるようになった。4月初め、マグロ漁民は来るべき漁に備えて装備を開始する。ライスと呼ばれる船長は5月の最初の週に沖へ出て、漁網を仕掛ける場所を決める。マグロの群れは以前通った場所はなぜか二度と通らない習性があるといい、次第次第に海岸線から遠ざかる傾向にあるという。長さ200〜300m、幅50〜60mという大きな仕掛けには、7つないし8つの“部屋”がある。この仕掛けの中央は、海岸もしくは岩礁から張った網と垂直に結びつけられる。上空から見るとちょうどT字型となる。海岸線や岩礁に沿って泳いできたマグロはこの網に行くてを阻まれて仕掛けのほうへと進む。進んだ先には“部屋”があり、一旦そこに入ったマグロは、人間との死闘「マッタンツァ」に挑むほかはないというわけだ。 最初は真ん中へ、次に隣の“部屋”へと徐々にマグロを移動させる。この作業は数日間に渡って続く。やがて海が静まり、仕掛けがマグロで充分満たされた頃、マグロは一番端の“死の部屋”へと追い込まれる。翌早朝夜明け前、船団が出動し、日の出と同時に船長が「引き上げろ!」と号令をかける。“死の部屋”の網はゆっくりと引き上げられていく。水中深くに逃げ込もうとするマグロは否応なく海面に押し出され、最後の力を振り絞って跳ね上がる。そこを上半身裸の男達が銛、あるいはこん棒を振り下ろし、息の根を止める。これがマッタンツァの一部始終だ。この漁には当然危険が伴う。過去に、何人もの漁師が船から落ち、猛り狂ったマグロの尾に打ち砕かれて死んでいる。“死の部屋”はマグロだけのものではないのだ。死闘の末のマグロは、加工場に運ばれ、一頭丸ごと、あるいは捌かれて売られる。ソッラと呼ばれる背の上等な部位を切り取った残り(ネッタという)、また腹側の脂の乗ったヴェントレスカ(いわゆるトロ)は、塩水でゆでた後オリーブオイル漬けの加工品となる。 イタリアで五番目に大きな島サンタンティオコと六番目のサン・ピエトロ島、そして、対岸のポルトスクーゾはマグロ漁で知られる。特にサン・ピエトロとポルトスクーゾの間の小さな島ピアナ付近はマグロの通り道だという。地図で見るとサン・ピエトロ島の北端にはトンナーレという地名がある。どんなところなのか、トンノ(マグロ)大好き人間としては見ておかないわけにはいかないと行ってみることにした。アルブスから山道を南下するか、あるいは、カリアリからは130号線でイグレシアスまで来て、そこからは126号線で南へ、サンタンティオコへと向かう。元はサンタンティオコ島はサルデーニャ本島とはつながっていなかったのだが、古代ローマ人が橋を架けて以来、一度も本島から切り離されたことはない。今は埋め立て地に舗装道路が敷かれ、車での行き来もスムーズだ。 サンタンティオコ島最大の町サンタンティオコは、紀元前8世紀にフェニキア人が作った町である。当時はスルキと呼ばれ、サルデーニャで採れる金や鉛など鉱物資源の輸出港として栄えた。その後もカルタゴ、そして古代ローマの港町として栄えたが、ローマ帝国崩壊後、度重なる海賊の襲撃に町はやがて打ち捨てられ、住民は内陸部へと逃げて行った。今はそんな歴史の暗い陰は感じさせない夏のリゾート地である。安い宿や短期貸しのバカンスハウスも多い、のんびりとした港町だ。サンタンティオコの宿に荷物を置き、島の北端にあるカーラセッタ港へと向かう。サン・ピエトロ島のカルロフォルテまで船で行くのだ。 カーラセッタの船着き場でのんびりとフェリーを待つ。正午少し前。バールで白ワインを飲み、それでもまだ時間が余っているので、ぶらぶらと波止場を歩く。小さな漁船がずらりと並んでいる。いくつかの船の上では漁師が網を繕っている。一カ所だけ人だかりしているところがある。なんだろうと近づいてみると、遅い漁から戻ってきた船が魚を仕分けているところだった。網で総ざらいしたのだろう、大きなセッピエ(コウイカ)やスズキ、タイのような魚、ヒメジなどの小魚、いろいろごちゃ混ぜだ。漁師は発泡スチロールのトロ箱に綺麗に魚を納めていく。どこかのレストランに運ばれるようだ。思わずついていきたくなる衝動をおさえ、フェリーが来るのを待つ。ほぼ時間どおりに船着き場に到着したフェリーに車を入れ、甲板に上る。空には雲一つなく、太陽が海を真っ青に照らし出している。絶好の船旅日和。たった25分だけれど。 サン・ピエトロ島は「サルデーニャのリグーリア」と呼ばれている。18世紀初頭まで、この島にはほとんど人が住んだことがなかった。サルデーニャの王であったピエモンテのサヴォイア公カルロ・エマヌエレ三世が、チュニジア沖にあるタバルカという島を拠点としていたリグーリア出身の漁師達にサン・ピエトロ島への移住を奨励して以来、島はリグーリア風の建物とリグーリアの料理とリグーリア訛りに染められ、しかも、アフリカのマグレブ風も混ざり合い、独特のエキゾチックな雰囲気を持つようになったのだという。果たして、カルロフォルテはどうであったか。 リグーリア風というのは、当時の印象だったのかもしれないと思う。確かに漁師町としては整った街並を見せている。港前の大通りはジェノヴァのそれに似ているとは言いがたいが、7千人弱という島の人口からすれば立派である。でも、この“ファサード”はいわば舞台の書き割りみたいなもので、裏に回ってみれば坂道に小さな家が密集するカスバのような街である。そういう意味では、エキゾチックというのもまんざら嘘ではない。そして、この町には幾つか有名なレストランがある。どれもマグロ料理を売りにしていて、日本のテレビ局が取材に来たという店もある。我々が入ったのが、まさにそういう店であった。でも、それは食べてから店主が教えてくれた。そして、そこで食べたものはどれも本当に美味しかった。 急な上り下りの坂道の中程に、周囲の民家と変わらぬ佇まいでレストラン「アル・トンノ・ディ・コルサ」はある。清潔で明るい雰囲気のリストランテだ。テラス席が空いているのでそちらへと案内される。こぢんまりとしたテラスだ。誰かの家に招待されたような感じである。トンノ・ディ・コルサ、回遊マグロという名が示すように、料理の中心はマグロであり、そこに、かつてこの島に移り住んだリグーリアの漁師達の拠点であったタバルカ島の伝統を取り入れているという。それを味わうにはまず前菜にミスト・デル・トンノ(マグロの盛り合わせ)を試してみなさい、と店主に勧められる。インテリ風の世話好きなおじさんである。マグロのパテ、血合いとさやいんげんの煮込み、オイル漬け(つまりツナ缶のようなもの)のトマトとバジリコ添え、ムシャンメ(塩漬け)のトマト・ピュレ添え、塩漬けにした後乾燥させたハツ(心臓)とレタスのサラダ仕立て、薄切りにしてかりかりに焙ったごま入りパンと塩漬けマグロの薄切りとトマトをオリーブオイルとヴィネガーで遭えたカップンナッダなどが白い長皿に綺麗に盛られていて、見た目に楽しい。もちろん、どれも美味しい。特に、カップンナッダは香り豊かなケイパーや、甘酸っぱいトマトがマグロの味わいを重層的にもり立てた、見事な出来映えであった。 プリモは、カッスッリという、これまたエキゾチックな名前のニョッキ。じゃがいもは使わず、粉と水だけで練ったニョッキをマグロ、トマト、パルミジャーノのソースで和えたもの。オレガノが効いていて、とても地中海らしい一皿である。セコンドは、トンノ・アッラ・カルロフォルティーナ、マグロの切り身を白ワインで蒸し煮し、月桂樹とヴィネガーのソースを絡めたもの。マグロはふっくら、しっとり柔らかく、甘くとろりとしたソースが絡まったところは、ちょうど豚の角煮を連想させる。これにはカスカと呼ばれるクスクスが添えられていた。チュニジアをはじめとする北アフリカの名物クスクスは、この島にしっかり息づいている。サルデーニャと並びマグロ漁で有名なトラーパニの名物料理もクスクスである。マグロあるところにクスクスあり。マグロ漁食文化圏というものが存在しているのかもしれない。 マグロ料理を堪能した後は、島の北端のトンナーレまで行ってみることにした。聞いたところによると、古いマグロ加工所があるという。坂の上に停めた車までだらだらと歩く。日はまだ高く、日射しは強い。誰ともすれ違わず、町は眠ったように静かだ。ふと、目の端をさささっと横切るものがあった。そちらへ目をやると、車の下にぼさぼさの毛をしたネコがいて、じっとこちらを見据えている。その目からは「こっちに来るな」という強い光線が出ている。はいはい、午睡の邪魔はいたしません。イングルトスのネコといいカルロフォルテのネコといい、気の強そうなネコにばかり遭遇しているような気がする。 トンナーレまでは5キロほどの道のり。舗装道路はやがてなくなり、いつのまにか白い砂利道に変わっていた。丈の短い草が地面を覆っている。先の方に光る海が見えてきた。それと同時に、道らしい道がなくなりかけてきた。この先下手に車で行って“はまって”しまうと困るので、適当に車を停めて歩いて先端まで行ってみることにする。草もやがてなくなり、堅い土がむき出しになり、そして平たい板状の岩が折り重なったような岩場に出た。千畳敷とまではいかないけれど、なかなか広い岩場である。すぐそこにアーペ(オート三輪)が停まっている。なんだ、ここまで車で来られたんだ。でも、アーペが行けるところ全てが普通の車にも行けるとは限らない。このアーペとフィアットのパンダは働く人の足だから特別頑丈にできている。道の舗装が充分ではない島の唯一(唯二?)の交通手段なのだ。実際、エオリエ諸島でもパンテッレリア島でも、レンタカーはパンダもしくはプントしかない。それから、ガソリンは借りた時点ではほぼ空っぽなのが普通だ。どうしてかはわからないけれど、とにかく借りたら真っ先に給油しなければならない。 翻って、トンナーレ。海に突き出した岬では、まだ季節がちょっと早いからか遊んでいる人はまばらだ。岩場から水を覗きこむ。透き通った水のなかを小さな魚が泳いでいる。もう少しするとマグロ漁のシーズンを迎えるはずだが、今はまだとても静かだ。このちょっと先の沖のほうで激しい水しぶきをあげてマッタンツァが行われるのだと想像しようとも、これだけ穏やかだと難しい。岬を右へ回り込むように歩いて行くと、石造りらしい建物が見えてきた。近づこうとしたが、関係者以外立ち入り禁止、の札がある。廃墟かと思っていたが、どうやら人がいるようだ。修復作業でもしているのだろうか。シチリアにもいくつかこうした打ち捨てられたマグロ加工所がある。しかし最近、これらを修復してホテルやレストランに改装しようという動きがある。シチリアはトラーパニ近郊の「ラ・トンナーラ・ボナジア」のように実際にホテルに生まれ変わったものもある。これら昔の加工所は、海に面した一等地にあり、そのうえ非常に頑丈に造られているので、建物の構造を活かして再利用する価値は高いのである。個人的には廃墟のままも格好いいとは思うけれど、地域振興としては大いに活用すべき物件なのだ。

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