サルデーニャ!4秘境、バルバージアへ(無料公開)
空からの玄関は大きく二つある。一つは州都カリアリであり、もう一つはバカンス客を迎えるオルビアだ。カリアリとオルビアはバスで4時間ほどの道のりである。なぜそんなことを知っているかというと、カリアリに降りるはずが悪天候で叶わずオルビア着となり、手配されたバスでカリアリに向ったことがあるからだ。カリアリの空港が全面的に改装され、大きく近代的になった今はそんな目に遭うことはめったになくなった(はずである)。それどころか、発着時間はほぼ正確だし、空港施設も機能的で清潔、スーベニアショップやバールも充実している。我々が普段利用するフィレンツェ空港のほうがよっぽど問題が多い。 バカンス旅ではない我々はカリアリから入る。別にオルビアから入ったって島を回るのなら問題はないが、なぜかカリアリからでなければいけないような気がする。我々にとってのサルデーニャの原点のようなところだからかもしれない。空港で車を借り、国道131号線を北へ向う。20キロほど走ったところで128号線に移る。そのまま131号線を進めば島の西側中程のオリスターノを経由して北のサッサリへと通じるが、今回はまずは内陸のヌオロへと向う。目的は、古代ローマ人が野蛮人の地と呼び習わしたバルバージア地方がどんなところなのかを見るためだ。 イタリア人作家ジュゼッペ・デッスィがサルデーニャを表してこう言った。「サルデーニャは月の一部である」。月のように乾いて冷たく、人類がかつて見たことのない顔を持つ土地だ、と。実際に内陸へ入っていくとその言葉の意味がよくわかる。冷たい、とまではいかないかもしれないが、巨大な石がごろごろと転がっている様を見ると、なるほど、これはイタリアのほかの土地にはない異様な光景だ、と思う。 サルデーニャの歴史において、石は重要な語り部である。紀元前12万年前(一説によると45万年前とも)に遡り長きに渡る石器時代、それに続く青銅器及び鉄器時代を通じて石は大きな意味を持っていた。古代のサルデーニャ人は石を用いて不思議なものを建造したのである。紀元前4千年から3千年にかけて造られた「ドムス・デ・ヤナス」(魔女の家)と呼ばれる地下墳墓や、「ドルメン」という横たえられた、あるいは「メンヒル」と呼ぶ直立した長さ3メートルにも及ぶ巨石群が島の各地に残っている。これらは、死者信仰に基づく墓だと考えられているが、真相は未だ定かではない。時代が少し下がって紀元前17世紀前後からは「トンバ・ディ・ジガンテ」(巨人の墓)、紀元前13世紀頃には「ポッツォ・サクロ」(聖なる井戸)なるものが盛んに造られたという。これらもまた宗教に関係していると考えられている。そして、もっとも複雑で謎に満ちた石の建造物が、ヌラーゲだ。 紀元前3千年頃、人々は採集・狩猟生活から農耕・牧畜(主に羊)生活にシフトしていった。定住が暮らしのベースとなり、石積みの住居を構えるようになる。その住居の一部に「ドムス・デ・ヤナス」が造られていたと考えられている。こうした石積み住居に住むいくつかの世帯が一カ所にまとまり、やがて村を形成するようになった。ヌラーゲはこの村が発達したものだという説がある。ヌラーゲ単体は、接着剤等を用いずに空積みした石でできた円錐台の塔で、一つ一つの石は成形されてはいるが、きっちりとした立方体ではない。名前の由来も定かではなく、“ヌル”という言葉が古代では「石と石の間のくぼみ」を指していたことから、そこになんらかの関係があるのではないかという。塔は単一のこともあれば、高さも直径もさまざまな塔が複雑に組み合わさったものもある。特に後者は前述の「村」説のほか、「宗教施設」説、「要塞」説、「天文研究所」説、あるいはそれら全てが合体したものであるという説と、まさに諸説紛々である。 現在も残っているとされるヌラーゲの数はおよそ7千、島の北西部や西部内陸に多いが、そのほかの地域にも散らばっているので、ほぼ島の全域に存在したと考えられている。そのほとんどが未発掘で野ざらしだそうだが、いくつかは整備され、見学することができる。初めて見たヌラーゲはそんな見学可能(必ずガイド付き)なス・ヌラクシ・バルーミニ、世界遺産である。中央内部は菱形で、その真ん中に塔、四隅にも塔があり、その周囲を幾重にも小さな塔が取り巻いていたらしい。現在は中央の建物がその往時を偲ばせる程度に残り、周囲はほとんど塔の形をなしてはおらず、ただそこに何かがあったことを匂わせている。が、その石が散らばる範囲は広大で、その昔はどんな威容をみせていたのだろうかと思う。遺跡ファンには必見の聖地だろう。 さて、バルバージア地方への道のり。バルバージアに向う国道128号線を行くと、規模こそ小さいけれど、名もないヌラーゲを見ることが出来る。大抵、少し見晴らしのいい野原にぽつんと孤立している。規模があまりに小さいものは、羊飼いが寝泊まりするためのカパンナもしくはピンネッテと呼ばれる小屋かもしれない。が、それもヌラーゲとほぼ同時代から存在するというから、ヌラーゲだと思っても構わないだろう。しかも、未だにそのカパンナは使われているものもあるというから、まさに生きた遺跡である。地図上では真西にオリスターノを見る頃になると、開けた平地とゆるやかな丘陵から景色はやがて木々が茂る山へと移り変わる。右手はジェンナルジェントゥ、島の最高峰(1834m)を擁する山岳地帯だ。 ヌラーゲを築き、豊富な鉱物資源を利用した冶金術で生活レベルは非常に高かったと考えられている古代サルデーニャ人は、紀元前1千年頃より現在のアフリカ、当時のフェニキア人との交易を始める。ところが、それから5百年ほど後、フェニキア人はサルデーニャ侵略を開始、追われたヌラーゲ系サルデーニャ人は内陸へ、ジェンナルジェントゥ山地周辺のバルバージア地方へと逃げていくのである。彼らは羊飼いをなりわいとし、フェニキアからカルタゴへ、さらにローマ帝国へと島の支配者が変わっても、頑として己の文化を守り、時に反乱を起こして抵抗した。ローマ人たちに野蛮人“バルバーリア”と呼ばれた所以である。

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