プロセッコの故郷、トリエステへ。“プロセカル”の物語
トリエステの駅から鉄道の線路に沿ってしばらく北上し、東に逸れて街を離れながら急な坂道を上る。わずか2km余りの距離だが、景色はすっかり山の中。車一台がやっと通れる細道の先に目指すワイナリーBoleがある。200年に渡ってこの地で葡萄を作り続ける小さな生産者だ。看板もなく、もちろんHPもない、農家ワイナリー。このワイナリーを理解するには、トリエステについて少し学ぶ必要がある。 フリウリ-ヴェネツィア・ジューリア州の州都であるトリエステ(昔の名はTergeste)は、古代ローマに遡る古い町だが、中世に衰退し、ヴェネツィア共和国の支配を経て、14世紀末にオーストリア帝国の庇護下に入った。その後も街は縮小するばかりだったが、18世紀にオーストリア帝国の女帝マリア・テレジアの政策により大規模な港湾都市への改革が始まった。本国に海を持たないオーストリアにとっては重要な交易と銀行の要地となったのである。この時代に周辺の、特にスロヴェニアからの移民が労働者として大量に流入。その後も街は発展し、人手不足ゆえに故郷で犯罪を犯して出奔した者も受け入れた。第一次大戦時はオーストリアとイタリアの激しい戦争の舞台となり、また、第二次世界大戦後は国際連合の管理のもと、イタリアに属さない「自由地区」となるなど、辺境ゆえの特異な歴史の波に揉まれた。その影響は1954年にイタリアに復帰した後も残り、フリウリ-ヴェネツィア・ジューリアはイタリアに五つある特別自治州の一つであり、トリエステは国境を有する州の都となってこの州の顔を務めている。 Boleの現当主はAndrej。先祖は200年前にスロヴェニアから入植した移民で、現在も国籍はスロヴェニアである。ピスカンチの山の急斜面に段々畑を拓き、グレーラ種、マルヴァジーア種、ヴィトヴスカ種、テラーノ種(レフォスコと同種)を栽培する。本来、この地域はテラーノ種で造る赤ワインの生産が主体だったが、近年の高品質白ワインブームを受け、Boleでも赤ワインと白ワインの比率は6対4、もうすぐ5対5になる勢いだという。かといって、急に白ワインを造り出したわけではない。白葡萄は常に栽培しており、特にグレーラ種は200年前に先祖が入植した時から栽培してきた。グレーラ種の出所ははっきりとはわかっていないが、この葡萄で作ったワインの出来は素晴らしく、1500年代にトリエステの北側を統治していた司教が、一帯の山で造るワインの原産地保護を告示。メディチ家がキャンティの原産地保護を決めるよりも早い時期にDOC認定がなされたことになる。そして、その名称が、中心地の町の名をとってプロセッコ(スロヴェニア語でプロセカル)となったのだ。この辺りが優れたワインの産地であることは、古代ローマ時代の大プリニウスの著作「博物誌」でも言及されている。ただし、古代より造られてきたのは今とは違う甘いワイン。葡萄を干して糖度を上げ、酒精強化したものだったという。 現在のようなスプマンテの“プロセカル”が造られるようになったのは19世紀、低温でゆっくり一次発酵させ、完全に発酵が終わる前に瓶詰めし、蓋は針金で厳重に留めた。加糖せず酵母も入れない自然の瓶内二次発酵で、途中、瓶が爆発することも少なくなかったという。こうして造られた“プロセカル”は11月11日のサン・マルティーノの祝祭に開栓し、祝いの食卓で振舞われるものだった。Boleのスプマンテは、プロセッコDOCの規定に従い、アウトクラーヴェによる二次発酵で造っている。が、伝統的な造りを意識し、この土地で造られてきた“プロセカル”独特の味わいをも大切にしている。そのあまり、年によってはプロセッコDOC保護協会による官能試験を通過できず、プロセッコを名乗らないスプマンテBrutとなることもある。 その他のワイン、グレーラのスティル、ヴィトヴスカ(マルヴァジアとグレーラの交配種といわれる)はステンレスタンクで発酵後、古い樽で熟成させる。スプマンテも含め、Boleの白ワインはキリッとした酸味と凝縮したドライな味わいが特徴。それは赤のテラーノ種も同様で、決して万人受けするタイプではない。だが、フリーシュと呼ばれる泥灰岩と砂が混ざった石灰質の土壌に長年根ざした葡萄から生まれる自然の味は、移民として辛抱強く生きてきたBole家の歴史と相まって、他にはない深みを感じさせる。造り手の顔が見えるワインというのは、こういうものをいうのだろうと実感させるワインである。SAPORITAをもっと見る
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