イタリア料理大全 厨房の学とよい食の術
今年2020年はペッレグリーノ・アルトゥージ Pellegrino Artusiの生誕200周年であり、それを記念して出版された初の日本語版が「イタリア料理大全 厨房の学とよい食の術 La Scienza in cucina e l’arte di mangiar bene」(平凡社)だ。1820年、当時教皇領だったフォルリンポポリ(現エミリア・ロマーニャ州)に生まれたアルトゥージは1851年に家族とともにフィレンツェに移住。父とともに商人として前半生を生きたが50才にして商売からは一切手を引き、文筆業に専念する。その間20年をかけて主に北イタリア中心のレシピを集めて執筆、編集したのが「La Scienza in cucina e l’arte di mangiar bene」だ。初版は1891年に475のレシピとともに2000部で自費出版されたが、その後版を重ねて最新版の第15版には790のレシピが掲載されており、累計5万8000部となっている。アルトゥージは1911年にフィレンツェで亡くなったが、彼が暮らしたマッシモ・ダゼリオ広場にあるパラッツォの入り口には今も「ペッレグリーノ・アルトゥージ、ここに暮らす」という記念碑が掲げられている。余談だが、フィレンツェ市が記念碑としてその名を建物に表示することを許可した料理関係者は、私が知る限りこのアルトゥージと、「トラットリア・ガルガ」(現ガルガーニ)創業者、ジュリアーノ・ガルガーニ Giuliano Garganiの二人だけだ。 さて、この「厨房の学とよい食の術」は監訳者である工藤裕子教授が、カーザ・アルトゥージ財団の全面的な信頼と協力を得て翻訳した大著だ。アジア語圏としては初の翻訳であり、イタリア料理のグローバル化を語る上でも、またもちろん19世紀の古典的イタリア料理を学ぶ上でもエポックメイキングな作品である。去る11月に行われた出版記念食事会で工藤裕子教授と知り合う機会に恵まれたが、その流暢かつ知的、上品なイタリア語力はじめ、溢れ出るアルトゥージへの知識はもちろんリスペクトと深い愛情に強く打たれた。エミリア・ロマーニャ州、特にロマーニャ地方とは縁が深く、ボローニャ大学フォルリ・キャンパス、フェッラーラ大学、モデナ・レッジョ・エミリア大学などとも深い関係を築いていた工藤教授以外、この大作を翻訳し、出版までこぎつけるという壮大なプロジェクトはなし得なかったのではないかと改めて思う。昨今の日本の出版事情を考えると、こうした大著の翻訳出版はまさに雲をつかむような構想だったことは想像に難くないが、実際工藤教授はあちこちの出版社に相談を持ちかけては、その分量を説明しただけで断られる、という状況を繰り返していたという。 本書の出版には他にも3人の翻訳者がプロジェクトチームに加わっているのでその名をここに記しておきたい。「シンデレラの物語にも似た一冊の書物の話」「序」「健康のための心得」そして1番から252番のレシピは中山エツコさんが、「煮込み」から558番のレシピまでは柱本元彦さんが、そして「菓子」から最後までを中村浩子さんが担当している。100年以上の時を超えて、アルトゥージの言葉をいきいきとした現代の日本語に蘇らせたその丁寧な仕事ぶりは是非実際に本書を手にとって堪能してほしい。 イタリア料理史的に見れば「厨房の学とよい食の術」は1861年のイタリア統一以降の社会変革を経て、一般庶民にとって料理が生きる手段から喜びへと変革していった、近代イタリア料理史を知る意味でも重要な作品だ。イタリア料理史においてはマエストロ・デ・コモ Martino de Comoや料理界のダ・ヴィンチといわれたメッシスブーゴ Messisbugoなど当時の貴重なレシピを遺した偉大な料理人はいたけれども、編集者として、作家としてこれだけの分量のレシピをまとめたのは古代ローマ時代のアピシウスをのぞけばアルトゥージがイタリア料理史上初めてである。それだけにグアルティエロ・マルケージが「現代イタリア料理の父」ならばアルトゥージは「近代イタリア料理の父」と呼ばれるだけの価値がある。 790のレシピはそれぞれ、ミネストラ、前菜、ソース、卵料理、生地と揚衣、詰物料理、揚物、茹物、トラメッソ、煮込み、冷製料理、青物と豆類、魚料理、焼物、菓子、トルタおよびスプーンで食べるドルチェ、シロップ、保存食品、ジャム、リキュール、ジェラート、その他色々の各章ごとに掲載されているがハイライトはミネストラと煮込み、菓子だろう。 現代でいうミネストラやズッパは主に「ブロード入りミネストラ」の項目に。手打ちパスタは主に「ブロードなしのミネストラ」に掲載されているが、冒頭でズッパを取り上げていることが、当時の一般庶民にとってどれだけズッパが重要であり、日常生活の中心だったかを再確認させてくれる。日常の主食は固くなったパンや残り野菜、チーズや生ハムの切れ端を煮込んだズッパであり、パスタはハレの日の祝祭的料理だったのだ。それでもパスタの項の最後にはスパゲッティを使ったレシピも7つ登場するのも興味深い。煮込みの章からは、たとえ写真はなくとも時間をかけてコトコト煮込むという厨房風景がイメージができる。菓子とトルタおよびスプーンで食べるドルチェの章には合計123のレシピが掲載されているが、その大半がいまも伝統菓子としてレストランや菓子店で見かけるもの。菓子の項目にこれだけの労力を割いているのを見るとアルトゥージは甘いもの好きだったのか、と思わせてくれるし、写真は一切なく文字とごくわずかな図版のみだが「行間を読む」という想像力を鍛える読書本来の楽しみを存分に味あわせてくれる。また、100年以上前の著作物の翻訳出版でありながら、フォントは現代的で読みやすい点もネットのGoogleフォントに慣れた世代にも受け入れられやすいのではないだろうか。厨房ではなく、書斎に置いて夜毎少しづつページをめくりたい、そんな一冊。

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