トスカーナのテロワールを表現する蒸溜所、ワインスティラリー
ワインを語るとき、必ずでてくる言葉がテロワールとミクロクリマ。土地特性とその土地に見られる気候特性のことだ。ワインの造り手は、葡萄を栽培する土地の土壌と気候がもたらす恩恵を、いかにワインの中に表現するかに心血を注ぐ。ワイン造りにおけるもっとも基本的で重要なフィロソフィーといってもいい。このテロワールとミクロクリマを蒸留酒でも表現しようという造り手がいる。トスカーナのキャンティ・クラシコ地区に誕生した「ワインスティラリーWinestillery」だ。  
エノロゴのニッコロ(左)とマスター・ディスティラーのエンリコ(右)兄弟。
フィレンツェから車で1時間半ほどのガイオーレ・イン・キャンティにワインスティラリーの蒸留所がある。森の合間に葡萄畑やオリーブ畑が点在する典型的なキャンティ・クラシコの景色に囲まれた真新しい蒸溜所だ。責任者を勤めるのは、マスター・ディスティラーのエンリコ・キオッチョリ・アルタドンナ。アメリカを旅した時にウイスキー蒸溜の面白さに魅了され、蒸溜所での経験を積んだ。大学では法学を学び、弁護士としての人生を歩むはずだったが、蒸留酒づくりの夢を諦められず、驚く父親を説得してワインスティラリーを立ち上げたのである。 イタリアで蒸溜所は、税務署や消防署などのコントロールがワイナリーよりはるかに厳しい。昨今はクラフト蒸留酒ブームだが、蒸溜所の数がクラフトビールのブリュワリーほど増えないのはそういう事情もある。しかし、エンリコの父親はエノロゴで、兄のニッコロもエノロゴ、そして妹のジネヴラは生物学者という“ワイン一族”。蒸溜所設立についての理解や協力という点では恵まれていたとも言えるだろう。 ワインスティラリーの母体は、家族で営むワイナリー「キオッチョリ・アルタドンナ」。グレーヴェ・イン・キャンティとガイオーレ・イン・キャンティに農地を持ち、ワイン(とオリーブオイル)を手がけている。標高300〜500m、夏でも夜は15度まで気温が下がるというガイオーレの畑は高低差が激しく、わずか数百メートル移動するだけで育つ葡萄の性格が異なるという。サンジョヴェーゼ、カベルネ・ソーヴィニヨン、シラー、メルローを栽培し、作柄の良い年にだけ醸造する「キオッチョリ」ラインとベーシックの「アルタドンナ」ラインの二つを展開している。ワインスティラリーはこのワインを蒸留し、ジン、ウォッカ、リキュールを作る。トスカーナはおろか、イタリアでも他に例を見ない新しいスタイルの蒸溜所である。
「キオッチョリ・アルタドンナ」のバリッカイオ。マロラティック発酵と熟成を行う。
ワインスティラリーのスタンダードラインナップは、「ロンドン・ドライ・ジン」、「オールド・トム・ジン」、「タスカン・レッド・ベルモット」、「タスカン・プレミアム・ウォッカ」の4種類。ジンは複数のボタニカルの香味が特徴の蒸留酒だが、香りの中心となるのが名前の由来ともなったジュニパーベリー(ねずの実)。トスカーナはジュニパーベリーの特産地として知られ、キャンティ地区、海岸地帯、アペニンの山間でそれぞれ香りが異なる。キャンティの森をよく見てみると、細い針のような葉がびっしりと枝を覆うジュニパーの木があちこちに自生している。夏は分かりにくいが多くの木が葉を落とす冬には、常緑のジュニパーは結構目立つ。近づいてみると、緑色や薄いオレンジ色、紫に色づいた実がついているのがわかる。一つの実が熟すのに3年かかるのだが、面白いのは、一斉に熟さず、それぞれがてんでばらばらに熟すこと。だから、1本の枝に異なる色の実が隣り合うという不思議な姿となる。試しに一つ、熟している紫色の実を食べてみた。噛むと途端に爽やかなあのジンの香りが溢れ出し、そしてベリーのような甘さが広がる。さらにこの香りの余韻がとてつもなく長い。こんなに美味なる実なのに、食べるのは鳥だけで、キャンティの野山を荒らすイノシシやノロジカが食べないのは、棘のような葉のせいだという。 ジュニパーベリーには、この香りだけでなく、殺菌、消化促進などの効能があるとされ、9世紀のサレルノ医学研究所でジュニパーベリーを使って蒸留した薬を作っていた記録が残っており、イタリアではこれがジンの始まりとも言われている。しかし、一般には、17世紀にオランダ人によって薬として作られていたものがイギリスで発展し、現在の大手ジンメーカーの多くがイギリス生まれというのがジンの辿ってきた歴史となっている。ところがその大手メーカーの多くがトスカーナのジュニパーベリーを使っていることはあまり知られていない。 一般にジンはベーススピリッツを購入し、各地からボタニカルを集めて仕込む。だから、トスカーナのワインスティラリーが、自らの土地=テロワールとミクロクリマを表現するにあたり、自社ワインを蒸留し、そしてトスカーナのジュニパーベリーをはじめとするさまざまな地元産ボタニカルをジンで表現するという発想は非常にユニークだ。ただ、それを実際に高いクオリティで実現することは簡単なことではない。いかに上質なベーススピリッツを蒸留するか、そしてどのボタニカルをどのような配合で抽出するか、実に細やかな神経を要する作業の連続であり、しかもその結果が傑出したものでなければ意味がないのだ。 ワインスティラリーのポットスチルは、トスカーナのモンテリッジョーニで100年以上の歴史を誇るフリッリ社によるカスタムメイドで、ベネット型(浸漬法) とカーターヘッド型(蒸気抽出法)を組み合わせ、さらにコラムスチルも組み込んだ超ハイブリッドスチル。ボタニカルの特性によってベーススピリッツに漬け込む(浸漬)か蒸気による抽出にするかを決め同時に香味を抽出、さらにアルコール度数の微妙な調整も可能な仕組みである。 フラッグシップである「ロンドン・ドライ・ジン」は、ジュニパーベリー、コリアンダーシード、アンジェリカ・ルート、イリス・ルート、オレンジピール、シナモンなど13種類のボタニカルを使用したアルコール度数42%。一般的にジンに使うベーススピリッツは穀物やトウモロコシなどを原料としたニュートラルスピリッツだが、マスター・ディスティラーであるエンリコによると、ニュートラルといってもやはり出自の性格は消えない。ワインスティラリーのベーススピリッツにはワイン由来の香りが微かに感じられるのだという。そしてジュニパーベリー、コリアンダー、深い森を思わせる香り、柑橘の皮の香りなどが複雑に混ざり合い、「トスカーナの丘を散歩している」記憶を呼び覚ますのだと。 「オールド・トム・ジン」は、18世紀から19世紀イギリスで質の悪いジンの欠点をカバーするために砂糖で甘くしたのが始まり。クラシックなロングカクテルのトム・コリンズにはこのジンを使う。ワインスティラリーでは砂糖を使わず、甘みを持つボタニカルで昔懐かしい味わいを実現した。はちみつのような香りとナツメグの香りが印象的で、ジュニパーベリー、コリアンダー、オレンジの皮、そして心地よい木の香りが追いかけてくる。「キオッチョリ・アルタドンナ」ではワインのマロラティック発酵と熟成にフレンチオークのバリックを使っているが、この樽に40日ほど寝かせることで香りが変化し、淡紅色を帯びた柔らかな琥珀色になるのだという。 ベルモットといえばトリノ生まれだが、その名前がつけられたというだけであって、ワインベースのリキュールはその当時のトスカーナでも造られていた。1773年に医師が記したトスカーナのワイン醸造に関する文書や、1736年発行のタウリネンシスTaurinensis調剤術にも、胃腸薬の効能があるとしてニガヨモギを浸漬したワインが紹介されている。「タスカン・ベルモット」は、そんなトスカーナの“ベルモット”の歴史を語るべく誕生したという。サンジョヴェーゼのワインをベースにクラシックなトスカーナのベルモットのスタイルを踏襲し、カラメルなどを一切使わずにワイン特有の紫を帯びた濃いルビー色を引き出している。スミレを思わせるフローラルな香りと赤いベリーの香り、そこにローズマリーとニガヨモギのスパイシーな香りが結びつき、華やぎの中に妖艶を醸し出す。そして果実の豊かな甘味と、その後にニガヨモギ特有のかすかな苦味の余韻が続く。ソーダで割ってもいいが、そのままメディテーションリキュールとして楽しんでもいい。 ウォッカはロシアあるいはポーランド発祥の蒸留酒だが、その誕生は14世紀にジェノヴァの商人が持ち込んだ “アックア・ヴィタエ”を皇帝が気に入ったことによるという説がある。寒冷地のロシアやポーランドではワインが造れないため、安価なイモやライ麦を材料にして生まれたのがウォッカ、イタリア語で“アックエッタ”、つまり、アックア・ヴィタエを意味するというのだ。真偽のほどはさておき、「タスカン・ヴォトカ」は、レモンの皮を思わせるフレッシュな香り、白胡椒の軽やかなスパイシーな香り、そしてシルクのような滑らかさに続いて、ワインの故郷である土に含まれるミネラルの余韻が残る。いわゆるウォッカのイメージを覆すエレガントな味わいである。 以上4つのスタンダードラインの他に、2つの限定エディションもある。コンセプトは「シネステティカ」、シナスタジア(共感覚)とエシックス(倫理・道徳)を合わせた造語で、ワインとスピリッツの境界、伝統と革新の境界を超えて、新しい目線でテロワールの表現を追求する姿勢を意味するという。これまでは離れていた二つの世界が出会うことで生まれる新しい世界を、多くの人と共感したいという思いから生まれたコンセプトである。 「コッパー・ストレングス」は加水をせずにミドルカットで得られた留液そのもの、アルコール度数70%のロンドン・ドライ・ジン。コッパー(銅の蒸留機)から生まれたままの(ネイビー)ストレングスというわけである。味わいはもちろん力強いが、同時に香りは複雑で奥深い。森、柑橘、ジュニパーベリーといった清々しい香りと、イタリア語でいうところのバルサミコ、かぐわしさが果てしなく広がる。なめらかで一切の雑味を感じさせず、ハーブ、ジンジャー、そしてかすかなアッサム茶葉の余韻。これをジントニックにするとものすごく幸せな気分になるというのもうなづける。 一方、「スロー」は、留液にサンジョヴェーゼの絞り滓を浸漬したジン・リキュール。スペルのSlowは、イギリスのSloe Ginにかけたネーミングで、Sloeがプラム果汁で作るところを、トスカーナを代表するワイン葡萄を使っている。赤いベリー、スミレ、マラスキーノチェリー、フラゴリーノ(野いちご)といったフレッシュフルーティな香りが際立ち、そこにジュニパーベリーそのほかのスパイスが奥行きを与える。味わいは溢れんばかりの豊かな果実味、それを葡萄の果皮由来のタンニンが全体を引き締め、後味にもキレがある。アルコール度数は27.5%、そのまま食後酒として、あるいはソーダ割りやカクテルで食前にも楽しめる、応用力の高いリキュールだ。 最後に、リリース直前というビターを試飲した。爽やかでスパイシー、きりっとした、えぐみのない綺麗な苦味。「コッパー・ストレングス」と「タスカン・ベルモット」、そしてこのビターで作るネグローニは、今までにない味わいだという。“シネステティカ”が生み出す可能性がどこへどこまで広がるのか楽しみである。    

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