東京「イル・プレージョ」の新局面、発酵菓子への挑戦
「イル・プレージョ」「プルサーレ」「フォルノ・プレージョ」を営む岩坪滋シェフ。
「きっかけは、イタリア菓子の職人である磯尾直寿さんがイル・プレージョに入った時。レストランのデザートだけでなく、磯尾さんならではのものをと考え、以前から取り組んでいたというパネットーネを出していこうと決めたことから始まりました」と、岩坪滋シェフは語る。2012年より東京・代々木上原で端正なイタリア料理を提供する「イル・プレージョ」を営み、2023年には麻布台ヒルズにカウンターのみのエレガントなオステリア「プルサーレ」を開業、そして2024年8月に「フォルノ・プレージョ」として専用工房を立ち上げ、パスティッチエレの磯尾氏とともに新たなイタリア菓子とパンの世界を構築中だ。 磯尾氏は2006年に東京・六本木で「パスティッチェリア・イソオ」をオープン。「イタリア菓子店を名乗るからにはパネットーネとパンドーロはやらねばならないと考えていました。当時は知識も技術もなく手探りでやっていましたが。しかし、店を閉めたことで作る機会自体がなくなってしまいました。それでも30年間この道を歩んで、それなりの経験も積んだ今、もっとも難しい発酵菓子に再び挑戦したいと思うようになりました」。
イタリア菓子の道を歩んで30年の磯尾直寿氏。
再開した発酵菓子作りでは、リエヴィト・マードレ(自家培養発酵種)の仕込み、生地の繋ぎ方、何度も発酵させなければならないなど、一つ一つクリアしなければならないポイントが多く、試行錯誤の毎日だという。そんななか、昨秋、岩坪シェフとともに北イタリアで“パネットーネ巡り”を敢行し、その中でさまざまな気づきを得た。パネットーネの名店と言われるところを10軒ほど回るうちに、店によってだいぶ違いがあり、いろいろなスタイルがある中でも、自分たちが美味しいと思うものが見えてきたという。とりわけ、2人が一致して美味しいと感じたのはミラノ郊外の「Pasticceria Besuschio」だった。磯尾氏がその昔、研修に行く予定だったが故あって実現せず、しかし、何十年ぶりかに訪ねてみて、あらためて素晴らしいと感じ入った。生地がしっとりしていて、しかも繊維感がしっかりして噛みごたえがあり、なのに口溶けが良い。香りが自然で、南イタリアでよく好まれるような強い香料は一切感じない。ひと言でいえば、バランスの良さを実感したという。 「パネットーネは、粉、バター、卵、砂糖といった素材そのものの味わいに、自家製のリエヴィト・マードレがもたらす複雑さが加わり、さらに柑橘やバニラの香りが楽しめるもの。インパクトの強さよりも、さまざまな素材の味や香りが調和をなすものがいいと思っています。よく言われる気泡についてはあまり気にしていません。縦伸びしている方が格好はいいとは思うけれど、それよりも食べて生地の繊維は感じられるけれど、パサつきのない、ゴムっぽさやねっとり感もない、パネットーネという発酵菓子独特の食感を出したいと考えています。また、やはりお菓子ですから、リッチさも感じられることが重要ですね」。
ミラネーゼ
現在、磯尾氏が毎日仕込むのはレストランのパンとデザートが中心で、店頭で販売するパネットーネや焼き菓子は売れ行きを見つつ必要に応じて仕込んでいる。パネットーネについては、「ミラネーゼ」「チョコレート」「アプリコット」「チェリー(ココア生地)」の4種のうち常時2〜3種を提供している。また、季節に合わせたスペシャルなバージョンも今後展開していく予定だ。 「副素材が変わると味はもちろんのこと、食感も変わってくるのが面白いですね。チョコレートはミラネーゼ・クラッシコに比べて副素材のチョコチップが軽いからか、生地の伸びが強く、高く仕上がる傾向にある。また、チョコの方が生地が乾いた感じになります。パサつくわけではなけれど、フルーツのコンフィが入っている方がみずみずしさは勝ります。一方、チョコは噛んで溶けるとまた味わいの複雑さが生まれて、そこが面白いと思います」。使用しているのはカカオバター添加のコーティング向けのものではなく、焼いてもカカオバターが溶け出ない、カカオ53%と61%の2種類を使って、チョコレートらしさを大事にしている。
チョコレート
一方、「アプリコット」はアグリモンタナ社のシロップ漬けと、ドライアプリコットに砂糖を加えて煮て戻したものを使っている。コンフィチュールのような溶け感と、歯ごたえのある感じ、2種類のテクスチャーであんずをしっかり楽しんでもらいたいからだ。チェリーもアマレーナのコンフィと一緒にドライのチェリーを戻したものを使って酸味をアクセントにするなど、複雑な味わいを出すようにしている。さらに将来的には果物のコンフィは日本製のものを使いたいと探索中だ。
チェリー
粉については、最初はイタリアのモリーノ・ダッラジョヴァンナ社製を使っていた。イタリアの粉の方が粒子が粗く、パネットーネには向いている。対して、日本の粉は粒子が細かいのでパネットーネらしさを表現するのは難しい。しかし、外国の粉でないとできないというのはちょっと悔しいので、最近は日本で手に入る粉を色々と試しているところである。 形状はいずれもアルト(背の高いタイプ。別名ミラネーゼ)だが、その理由はイタリアで多く見られるバッソ(背の低い、ピエモンテタイプ)よりも、食感がパネットーネらしくなると感じているから。また、パネットーネ本来の味わいを楽しんでほしいので、グラッサ(アイシング)のないものを作っていきたいという。 「砂糖、バター、卵をできる限りたっぷり使って、しっかり発酵したものがパネットーネ。リッチにすればするほど、目は詰まる傾向にあります。以前は縦伸びした気泡を重視していたけれど、あまりそこは気にしなくていいかな、と。例えるならフランスパンのような気泡を目指すのではなく、食パンのようにきめが細かくてもテクスチャーとしては軽く美味しいものがあるのと同じです。また、副素材も入って、ブリオッシュよりもさらにリッチでありながらも、自家製の発酵種だけでしっかり発酵していることを示す香りが感じられるものを目指しています。つまり、ビール酵母のものとは違う、発酵種特有の乳酸菌由来の華やかな、花のような香りがするものを...。市販の耐糖性酵母でもパネットーネなどは作れると思うけれど、やはり、複雑な香りは自家製の発酵種にしか出せないと思います。実際に、イル・プレージョでもリエヴィト・マードレで発酵させたリーンなパン、パーネ・トスカーノなどを作りますが、市販のイーストで発酵させたそれに比べて全然香りが違うのです」。 いずれにしても、特別変わったことはしていないという磯尾氏。自分がこれまで得た知識をもとに、ひたすらおいしく食べてもらいたいと思って作っているという。発酵は自然界の菌を利用することの面白さと難しさ、そして、はっきりとした正解が未だなく、おそらく永遠に正解は出ない世界である。生き物をどう育ていくか、どう接していくか、終わりのない発酵菓子の魅力に引き込まれた磯尾氏と岩坪シェフは、今後も通年パネットーネを作るのみならず、パネットーネの仲間、例えばコロンバやグバーナなどの展開も検討しているという。イル・プレージョが繰り広げていくイタリア発酵菓子の世界はやがて、日本におけるイタリアの食にさらなる厚みと奥行きをもたらしてくれるだろう。   磯尾直寿氏 1992年 Enoteca Pinnchiorri(東京) 1997年 Baia Benjamin (Ventimiglia) 1998年 Mangia Pesce(東京) 2001年 La Cascina (Montecatini Terme) 2001年 Antica Osteria del Ponte (Cassinetta di Lugagnano, 東京) 2006年 Pasticceria Isoo(東京)オープン 2015年 Antica Osteria del Ponte (東京) 2019年 Elan (東京) 2021年 ホルン(洋菓子店・東京) 2022年 Mille Cinquecento(東京) 2023年 Il Pregio(東京) 2024年 Forno Pregio(東京)   パネットーネの購入・問い合わせは、イル・プレージョヘ https://ilpregio.jp/    

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