シチリア美食の王国へ09 ドン・チッチョ@バゲリーア
パレルモ郊外へゆで卵とズィビッボの前菜を食べに シチリアを初めて訪れた時、強烈に印象に残った店がある。バゲリーアの食堂「ドン・チッチョ」。バゲリーアは18世紀末の、シチリア貴族がいっせいに郊外へ出ていった時代に発展した街である。貴族達がこぞって建てたパラッツォのなかに、ヴィッラ・パラゴニアというグロテスクなバロック様式で凝り固まった屋敷がある。北のマッジョーレ湖に浮かぶイゾラ・ベッラのボッロメー伯爵邸も凄まじいが、こちらは南の強烈な日ざしの中で陰影がより濃く感じられて凄みが増し、なのにどこかおどけた雰囲気も入り交じっていて親しみも湧く。 そのヴィッラ・パラゴニアにほど近く、トラットリア「ドン・チッチョ」があった。ここでまず出てきたのが、グラスに入った濃い茶色のワインとゆで卵。この店には前菜がなく、いきなりパスタになる。その待ち時間をしのぐものとして、このワンセットが出てくるのだ。当時は、このワインをマルサラだと記憶したが、後日尋ねてみたら、ズィビッボ(モスカート・ディ・アレッサンドリア)種のパッシート(陰干し葡萄のワイン)だという。どうしてこんなコンビネーションが生まれたのか定かでないが、現代的に解釈すれば、甘いワインで食欲を促し、そこに塩をつけたゆで卵で口中の甘さを中和する、といったところか。シチリア、特にパレルモは「甘い」と「辛い(塩からい)」が料理の中で強く出てくる傾向にあるが、それは、ナポリ王国時代にフランス人コックが多用され、フランス料理的「甘」「辛」バランス感覚が導入されたのことに由来するという。 どうしてもズィビッボとゆで卵のあの前菜がもう一度食べたくて再びバゲリーアに訪れたのがこの2003年春。移転していたが、やはりヴィッラ・パラゴニア裏門すぐそばにあった。車通りの激しい裏道に適当な隙間を見つけて車を停め、期待半分、不安半分で店に入る。がらんと広い店内にはシチリア名物の荷車や古い樽が飾られている。その真ん中、店内をぐるりと見まわせる位置にレジがあり、白髪で眼鏡のおじさんが座っていた。まだ時間が早いせいでお客はほとんどいない。 席に着くと、メニューが渡され、その一瞬後にゆで卵とズィビッボののった皿が登場。夢にまで見たこの組み合わせ!家でやろうと思えば簡単にできるのに、どうしてもバゲリーアでもう一度体験したかった。ズィビッボを一口すすり、ゆで卵の殻を剥く。ごく普通のゆで卵だ。塩をつけて食べても普通のゆで卵。でも、ズィビッボと一緒に、しかもバゲリーアで食べているという現実が何か特別な意味を持ってしまっている。すべてごく個人的なのめり込みなのだが、これも初めてのシチリアの思い出がとっても強烈だったからとしか説明のしようがない。一瞬のタイムスリップ。 ゆで卵を食べ終わり、ようやく落ち着いたので、シンプルなイワシのパスタ、カジキのインヴォルティーニを頼む。すると、先ほどまで店の真ん中の“番台”にいた白髪眼鏡のおじさんが近づいてきて、にっこりしながら、店のパンフレットをくれた。A4よりもひとまわり大きな二つ折りパンフレットとそれよりは小さな四つ折りのパンフレットの二種類。どちらにも店の写真、料理の写真をこれでもかと載せ、英語、ドイツ語、フランス語の説明がついている。ヴィッラ・パラゴニアを訪れる観光客のために用意してあるのだなと推測。しなくてもいいのに、てんこ盛り志向のイタリア人はついこういうパンフレットやショップカードを濫造する。それでも、このパンフレットには白髪眼鏡の彼、サントおじさんの渋いポートレートもついていてそれはそれでなかなか印象的である。パンフレットには1943年に父親のフランチェスコが始めたとある。2003年で六十周年だ。パレルモ人は、伝統的な家庭料理は肉料理で、それはドン・チッチョのような料理だと言う。カジキのインヴォルティーニもいいが、ここで食べるなら仔牛のパレルモ風などがやはり正統だ、と。六十年間変わらずにいるというのは、考えたらすごいことである。 ひととおり満喫したら、最後は砂糖をふってアーモンド風味のワインをかけたオレンジでしめくくる。これだけ食べて1人14.70ユーロ。ユーロ通貨が一般に流通するようになって飲食費が異常に高騰したイタリアでは充分安い。 バゲリーアという街は、映画「ニューシネマ・パラダイス」で、そこが舞台となってストーリーが展開した、という設定になっている街である。実際に撮影されたのはパレルモから内陸に入ったパラッツォ・アドリアーノという街で、バゲリーアよりも規模は全然小さい。それでも、映画のロケ地だということで結構ホテルは繁盛しているらしい。Via del Cavaliere,87 Bagheria(PA) Tel091-932442 水曜、日曜休み 1997年に、ヴィッラ・パラゴニアのすぐ裏手に移転した。パレルモ人には「肉中心の庶民料理の店」と認識されている。魚よりも肉が安いのは昔も今も変わらない。
SAPORITAをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。