Joia@MILANO
Joia@MILANOで過ごす3時間はスイス人シェフ、ピエトロ・リーマンと、料理を介し互いの生き方をぶつけあう哲学の時間である。ミシュラン一つ星、ヴェジタリアン・メニュー、そうしたキーワードではリーマンを理解するのは難しい。レストランで最も楽しいひとときはメニューを解読する時間だ、と思う人ならジョイアでメニューをひもとく数分間は、例え何も口にせずとも満足感がひしひしと伝わる貴重な時間であろう。 L’Enfasi della Naturaというメニュ・デグスタツィオーネは訳すなら「自然の強調」。つまり天地人、風林火山といったあらゆる自然の要素を皿の上で表現しようとする、東洋思想に傾倒した料理人のメッセージである。それを難解だとか、今風でないと断ずるのは容易い。確かにマッシモ・ボットゥーラやパオロ・ロプリオーレといった年下で今が上り調子の料理人たちに比べれば彼の料理はプレゼンテーションも含めて90年代の料理なのかもしれない。しかし、採算や流行度外視、ひたすら己の信じる道を行くリーマンの世界は爽快で心地よい。誰もがスペイン勢に発想の自由さと技術の追求を求め、ヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナを破壊、分解、そして再構築する確かなストリームがある中、リーマンが構築する世界には、ある種いさぎよさがある。それは彼がスイス人であるというアイデンティティに基づき、イタリア料理界における己の境界線を自覚しているからなのかもしれない。Identita Goloseでのフリートーク、持ち時間40分の間、途中から時間を気にして進行していたのはともに時計王国であるスイス人リーマンと日本人笹島氏@Il Ghiottoneの2人のみだったことは料理人のメンタリティをはかりしる上で非常に興味深い。 全ての料理を羅列するのはナンセンスなのでここでは一部にとどめるが、Senso di Contattoという「触感」を意識させる料理は右手でストラクチャーが異なる3つの料理を口にし、同時に左手ではそれと対をなす物体をにぎりしめるという、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の計算士の作業にも似た、右脳と左脳を別々に働かせ脳をフル回転させて食べる料理であった。 ドルチェもまたキッチュで奇抜である。ともすれば形式主義、フォルマリズムにおちいりがちなリーマンの世界を美味しい、美味しくないと論ずるのはあまり有益なことではない。とにかく3万円握りしめて店のドアを押してみることが、その後の本人の長い人生における料理基準の一助となることだけは間違いないはずである。 ワインはEdoaldo ValentiniのMontepulciano d’Abruzzo1990。昨年散ったアブルツォの巨星が作った17年前のワインは開栓当初、古いバルバレスコを思わせるような、森、革、タバコ、動物を思わせる、それはそれはその後の期待を膨らませる動物性の香りが立ち上っていたが、それは食事の半ばで霧散した。全体に細かいおりがまわっていたことも110ユーロのワインにしては残念だった。AISのバッジをつけてはいるものの、ソムリエの各テーブルに対するサービスや仕事に対する愛情が、一つ星のカンティーナを仕切る者としては物足りなかった。MASA

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