フィレンツェのビオ市Fierucola

15年住んだサンタ・マリア・ノヴェッラ地区からアルノ川の反対側のサント・スピリト地区に移って半年、この小さな街では人の行動範囲がいかに狭まるかを身をもって体験した。川向こうへは3分もあれば行けるのに、ほとんど全く行かなくなった。年末のアメ横さながらに大混雑するポンテ・ヴェッキオを渡りたくないというのもある。さらに、その隣りの橋も最近は写真撮影に夢中の観光客の合間を縫って歩くのが一苦労で、これまた川を渡る意欲を減退させる。なるべく用事は川を渡らずにすませるように知恵を巡らせるようになった。

というわけで、たまに出かけていた蚤の市もフォルテッツァ・ダ・バッソのそれには行かなくなり、もっと規模は小さいがサント・スピリト広場の蚤の市に出かけるようになった。毎月第二日曜日、フィレンツェでは珍しい緑の木陰のもと、古道具からちょっとしたアンティークまでいろいろな屋台が並ぶ。広場に屋台を出すほどでもない文字どおりのガラクタは、サント・スピリト教会の脇の地べたに広げたシーツの上に並べられていたり、とても庶民な雰囲気の蚤の市である。

このサント・スピリト広場ではもう一つ、人で賑わう市が立つ。毎月第三日曜日のビオ市フィエルーコラだ。フィレンツェ近郊の有機栽培の農家が野菜を売るほか、天然酵母のパンやビスコッティ、チーズ、ジャムや保存食、雑穀、ハーブ、石けん、木工製品などの屋台が出る。なかには、アペニンを越えてボローニャ方面から遠征してくる生産者もいる。自宅の周囲に自生する柳やオリーブの枝でカゴを編むお年寄り夫婦の屋台は並べたカゴの回りに野草を飾り、そこだけどこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。浮世離れといえば、天然酵母パンを販売している人たちも皆昔懐かしいヒッピー風。そのほとんどが女性で、判を押したように化粧気がない。

このフィエルーコラ、実は意外と歴史が古い。キリスト教以前の異教徒の時代に農業の女神であったデメトラの祭りが、聖母マリアの誕生日前夜の祭りとなって、9月7日の夜にフィレンツェ近郊の農家がサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に集まって豊穣と子宝を祈願する習わしがあった。そして、翌朝、教会でのミサの後、農家が持ち込んだ野菜やパン、干したきのこなどの保存食のほか、糸や織物を売ったのがフィエルーコラの起源である。なぜフィエルーコラという名前になったのかは、フィレンツェ人お得意の揶揄が込められている。田舎からやってきた野卑な百姓女たちはフィエラ(市)でさして価値もないもの(フィエルーコラ)とバカにしていたのだ。今ならモラルハラスメントだと訴えられるに違いないが。

ところが、1800年代初め、殺人事件が発生したために時のトスカーナ大公が市を禁止。ほどなくしてイタリアにも産業革命の波が届き、農家をやめて工場勤めを選ぶ人が増え、そのままフィエルーコラは消滅してしまった。それから150年余り経った1984年、サンティッシマ・アンヌンツィアータで環境に配慮して生産された手作りの物販市が開催され、フィエルーコラは復活。現在は、サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場とサント・スピリト広場でそれぞれ月に一回開かれている.