イタリア縦断鉄道の旅12 孤高の街マテーラへ
連日続く早起きはまだまだ続き、6時に宿を出て駅に向う。まだ辺りはとっぷり暗い中ロザリオ教会だけが異様に光り輝いている。 レッチェ駅はすでに通勤客でにぎっていた。駅の新聞、雑誌スタンド「エディーコラ」でスッド・エスト鉄道Ferrovie del Sud Est(www.fseonline.it)の切符を買う。アルベロベッロまで7.30ユーロ。5番線にやってきたのは2両編成のディーゼル・カー。6時59分発、マルティーナ・フランカ着は8時50分。外は濃い霧で駅のホームで列車を待っていると霧が身体にまとわりついてやけに冷え込んでくる。9時11分発のバーリ行ディーゼル・カーは。2階建てデュプレックス車両もある4両編成だった。 このスッド・エスト鉄道はバーリやレッチェ、ターラントなどプーリア州の主要都市を細かく結ぶローカル線で、トスカーナやシチリアと同じく、田舎の小都市巡りが楽しいプーリアの旅では重宝する。その名も「スッド・エスト鉄道」というオムニバス形式の映画も作られたほど、地元ではよく活用されている現役路線である。 マルティーナ・フランカからロコロトンド、そしてアルベルベッロにかけて、車外にはトゥルッロと呼ばれる円錐形の石積み住宅がひんぱんに出没するようになる。このトゥロッロとはこのあたりのムルジェ高原によく見られる石積みの住宅で、その原型は先史時代にさかのぼる。このトゥロッロが密集して街を形成しているの世界遺産のアルベルベッロには9時26分に到着。 街を見るならばポポロ広場の先にある見晴し台がいい。目の前に広がるトゥルッロの海の用な住宅群がリオーネ・モンティ地区、左手がアイア・ピッコラ地区で合計約1400のトゥルロが現存している。しかしリオーネ・モンティは土産物屋の客引きが激しい。歩いているだけでイタリア語、英語、時には日本語で呼び込みしてくる。そのうちとある店の前に立つ妙歳の女性に「コンニチワ、ノゾイテイキマセンカ?」といわれたので誘蛾灯に誘われた虫のようにふらふらと店内に吸い込まれてゆくと、朝からワインを試飲しろという。今まだ朝の10時過ぎ。それよりも腹がへってるからパニーノかなんか食べさせてくれというと、じゃチーズを味見しなさい、サラミはどう?パンもあるわよ、と、次から次に切って出してくれる。ただ食いするのも悪いので店内に張ってある日本語をちょいと訂正してあげて、食べたチーズとサラミをひとつづつ買おうとすると、なんと代金はいらないという。「これは日本語を書いてくれたお礼としてもらって(注・イタリア語)」と決して代金を受け取ろうとしない。 こういう旅先での気持ちはありがたく受け取り、白いコンビニ袋片手に石畳を上ってゆくと今度は若い青年が「コンニチワ、グラッパドウデスカ?」話しかけてくる。いくら私でも朝10時からグラッパは飲まない。いやはや、アルベルベッロの日本語浸透率はたいしたものである。 翌朝起きると窓の外はまるでミラノあたりにいるかのような濃い霧。5メートル先も見えないような中、駅前ホテルから徒歩30秒で駅に向い、8時28分発の急行ディレットでFSバーリ中央駅に向うが、これがちょうど通学時間にあたり超満員。話を聞く友なしに聞いているとみなバーリ大学の学生のようで、9時36分に駅に着くやいなや全員が下り、あっという間にいなくなった。アルベロベッロからは4ユーロ。 マテーラに向うアップロ・ルカーネ鉄道Ferrovie Appulo Lucane(www.fal-srl.it/)の始発駅は、FSバーリ中央駅を出て駅前広場の左手、信号の手前辺。切符を買って2階にあるホームへと階段をのぼる。マテーラまで4ユーロ。10時53分発のマテーラ行、やってきたのはこれまで見たことない、古い形で一見イタリアらしくないしかしちゃんとフィアット社製のディーゼル車両4両編成。途中駅で何度か切り離すからマテーラ行車両を確認して乗るべし、と聞いていたので駅員を探すが必要な時にいないのはイタリア鉄道の旅の常。旅客に「この車両はマテー行きですか?」と聞くとみな、そうそう、としかいわず不安になる。案の定、出発してしばらくすると車掌が回って来て「マテーラ行きの方は前の車両に移って下さい」という。しょうがないから次の駅で荷物もってぞろぞろみんなで大移動。しばらくするとまた同じことが繰り返される。楽書きこそないから乗り心地は悪くないもの、このシステムなんとかならないものだろうか。 再びバジリカータ州に戻り、旅の最終目的地マテーラ着12時21分。ホテルは旧市街サッシをのぞむアルベルゴ・イタリアAlbergo Italia(www.albergoitalia.com)。最上階の部屋にチェックインするや否や、屋上のテラスに出ると、それ以上手すりに近づくのが一瞬恐ろしくなった。奈落の底のようなサッシの異様な光景がテラスのすぐ向こうに広がっているのである。 世界遺産都市マテーラの旧市街はサッシと呼ばれる洞穴住居の集合体でできている。眼下に流れるグラヴィーナ川からほぼ垂直に切立つ岩肌に穿たれた無数の洞穴。街の起源は、そんな自然の洞窟に人間が住み始めた新石器時代といわれている。後にそうした洞穴には国を追われた隠者や難民、被迫害者が暮らしはじめ、崖の上部に街が発達して貧富の差が拡大すると貧しい民は崖を下って、文字通り奈落の底へと落ち、棲み着くようになる。 テラスに立ってサッシを見下ろせば聞こえてくるのは谷から吹き上げてくる胸を打つ風の音。それは洞穴から沸き立つ怨念の固まりで、サッシの慟哭にも咆哮にも聞こえる。膝がふるえ、それ以上近づくのを心が拒否する。反ファシズムの作家カルロ・レーヴィはトリノを追われてマテーラへ島流しにされた体験を「キリストはエボリに止りぬ」という小説にしたが、マテーラはマラリアや貧困が荒れ狂い、神の慈悲さえも届かぬ見捨てられた土地、と描いている。 戦後イタリアの恥部に住む住民は強制的に移住させられサッシは文字通りの廃墟となったが、1993年の世界遺産認定以来修復は進み、現在はホテルやレストランがどんどん誕生している。初めて訪れた10年前は怪しい輩が多く徘徊し、車のドアはロックして絶対車外には出ないようにしていたが、そんな空気など今はみじんもない。とはいえ街の歴史はそう簡単にぬぐい去れるものではない。 サッシ最上部の岩山に立つ孤高の教会サンタ・マリア・デ・イドリス。その頂上に立てられた鉄の十字架はサッシの業を一身に背負い、そこに暮らした人々の魂に救済を与えているかのように、西日を浴びて鈍く輝いていた。SAPORITAをもっと見る
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