イタリアの老舗料理店16 トラットリア・ソスタンツァ 創業1869年

「ソスタンツァ」別名「トロイア」があるポルチェッラーナ通りは家具修復や絵画修復、額縁制作といった小さな工房が軒を連ねる狭い通り。ルネッサンスの頃にはボッティチェッリが住んでいたともいわれている古い通りのひとつである。しかしフィレンツェ生まれでフィレンツェ育ち、体の中にはフィオレンティーナのチームカラーである紫色の血が流れていると公言してはばからない男たちはポルチェッラーナ通り、と聞けば職人街というより早く「ああ、トロイアのある通りね」と口を揃えていうのである。実は「トロイア」とは娼婦の意味である。事実この二百メートル足らずの通りの四つ角には数名の女性陣が今も毎日路上に立つ。とはいえ実際は現役引退して久しい感じのOGが大半で、現役らしきは一人のみ。OG達は通りに出した椅子に腰掛け、煙草くゆらせつつ道行く職人と言葉を交わす。迫力満点、一見コワモテの顔役であるが、近所の母親が赤ん坊を連れて通ろうものなら、それはそれは愛情たっぷりのかわいがりようでしばらく離してくれないほどである。彼女たちは誰よりもこの界隈を知る住人であり、もはやなくてはならない風景の一部と化しているのである。そんなことから「ソスタンツァ」はいつしか「トロイア」とも呼ばれるようになった・・・。フィレンツェ人でもそう信じている人が大半だが、「トロイア」の真実はそうではなかったのである。

「ソスタンツァ」を初めて訪れたのは、東京からフィレンツェへと移り住んだ1998年の1月。一見病院を思わせるようなタイル張りの店内には細長いテーブルが幾つか並び、相席ごめんの店内はすでに満員。緊張しながら席に着き、パウチっ子された難解な手書きメニューを必死に解読。やがてあらわれた鷲鼻のカメリエーレは前菜、パスタ、セコンドと一気に頼もうとする我々を「慌てるな、まずは前菜からだ」とニコリともせずクールにもてなしてくれた。ハウスワインがカラフになみなみと注がれ、やってきたのはトルテッリーニ・アル・スーゴとペンネ・アル・スーゴ。いずれも茹でたパスタに肉の滋味が染み込んだソース「スーゴ」をたっぷりかける、という定食屋風の盛りつけ。セコンドの「ボッリート・ディ・マンツォ」はシンプルな茹で牛すね肉。典型的な冬の料理だが、巨大な牛の固まりが純白の皿の上に二固まりゴロリ。これをケイパーの効いたサルサ・ヴェルデで食べる。いずれの料理も飾りのイタリアンパセリ一葉乗っていない。一切の装飾を拒絶した痛いばかりに素朴な料理はしかし味わい深く、まるでイタリア人家庭で夕食をふるまってもらっているようかのように、体のすみずみまで染み渡った。

それとこの男性的なサービス。過剰包装、過剰サービスに慣れた日本の感覚からすると不安になるほど客をほっぽりっぱなしに見えるのだが、満員の店内でもちゃんと各テーブルに目を光らせ、料理が終わると素早く下げにきて「次は何にする?」とさりげなく、しかし温かく尋ねてくれる。言葉は必要最小限、べたべたしない大人同士の距離感、あくまでクールなトラットリアであった。家に帰ってイタリア語の辞書で店名を調べると「ソスタンツァ=本質、滋養物」とあった。その名の通りまさに質実剛健を地でいく店。これが以後のイタリア生活の原点となる「ソスタンツァ」との邂逅である。

当時驚いたのは「パスタ・アル・ブッロ」という料理。直訳すれば「バター風パスタ」でその名の通りゆでたペンネの上にバターの固まりがごとん、とそれだけ。簡にして素だが粗ではないシンプルの極み。小さい頃に食べたバターご飯を思わせる料理。「ソスタンツァ」はフィレンツェ風Tボーン・ステーキ、「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ」が美味しいとか「トリッパ」を食べろとかフィレンツェ人はいろいろいうが、「ソスタンツァ」の本質を文字通り表現している料理は実はこのパスタ・アル・ブッロであった。一九九八年当時、これで七千リラ(約三百五十円)。ユーロ導入後の現在は七.五ユーロと倍の値段になっているが、その代わりパルミジャーノと黒胡椒がたっぷりとかかった、いわば「カチョ・エ・ペペ+ブッロ」となり、少々バージョンアップした。

もうひとつ昔からある定番ソスタンツァ・メニューはボッリートで作る際にできたブロードを琺瑯のカップで飲ませる「ブロード・イン・タッツァ」すなわち驚きのカップ・コンソメだが、これも素の素にして栄養価の高い本質的メニューである。「四分の一ゆで鶏」という料理もある。これはまさにゆでた鶏が腿一本+ボディ半分ですなわち鶏四分の一羽分皿に載って出てくる。例によって盛りつけは至極シンプル。サルサ・ヴェルデもなく味付けは塩胡椒のみと病み上がりにぴったり。

長年店を仕切ってきた経営者の一人シリアーノは「ソスタンツァ」で五十年間カメリエーレを勤めた生き証人。彼がこんな話をしてくれた。店の創業は一八六九年、創業当初はカンポルミ家が所有する「カノーヴァ=酒屋、倉庫」という名の酒屋兼立ち飲み屋でポルチェッラーナ通りから伸びる薄暗い脇道にひっそりとたたずんでいたそうである。転機を迎えたのは一九二〇年代、地元の名士バストッジ伯爵がカーレースの事故でポルチェッラーナ通りの角にあるサン・ジョヴァンニ病院に入院。毎日大勢訪れる見舞客がカノーヴァに立ち寄るようになったため簡単な食事を出すようになり、一九三二年の病院の拡張工事に伴い現在の場所へ移転して「ソスタンツァ」と改名した。

当時の名物オーナー兼料理人がグイド・カンポルミ。実質的な「ソスタンツァ」の創業者であり、現在の店のスタイルは彼の時代を何一つ変わっていない。「ソスタンツァ」の厨房は昔から炭竃である。グイドは素手で炉に炭をくべ、その直火で焼く香ばしいビステッカも指でひっくり返していたから両手はいつも真っ黒。それでも知り合いが店に食事に訪れると「よぉ、よく来たな」と相手がスーツ姿だろうが白いシャツだろうがおかまいなしに体を触りまくるというオープンな人物であった。やがて人々はそうしたグイドの愛すべき抱擁をうまく避けるようになり、いつしか愛情を込めて「トロイアイオ=汚いやつ」と呼ぶようになったという。これがトロイア伝説のはじまりである。

グイド亡き後息子のマリオとジョルジョが店を継ぐが一九七七年に「若手」三人に店をゆずる。シリアーノ、マリオ、ニコラ。マリオのみが唯一現役で今も毎日厨房に立つ。フィレンツェでも今や貴重となった炭竃に炭をくべ、大鍋でボッリートを煮込み、肉を焼く。炭火で焼く「ソスタンツァ」のビステッカはフィレンツェの大いなる食の喜びの一つである。五十年間毎日昼飯を食べにくるという恐るべき常連の座る席が入り口近くにあるのだが、そこにはかつての常連客ニノ・カポクアドリが「ソスタンツァ」に捧げた一文が今も掛かっており、こう書かれている。

橋の下をたくさんの水が流れ

もはやフィレンツェは昔のままではない

人々さえも変わってしまった

しかし全てが変わったわけではない

ここにはマリオがいるのだから

トラットリア・ソスタンツァTrattoroa Sostanza(フィレンツェ)
Via del Porcellana,25r FIRENZE
Tel055-212691 
12:30〜14:00、19:30〜21:45 土曜、日曜休