イタリアの老舗料理店18 ダ・ブルデ 創業1901年  

フィレンツェ最もディープなのトラットリアはどこかと人に問われたら、まず迷うことなく「ダ・ブルデ」の名前をあげる。一九〇一年の創業以来代々ゴーリ家が経営するこの店はフィレンツェの中心から約五キロ、ペレートラ空港に近いピストイア街道沿いにある。旧市街でなく、町はずれにあることからして旅人が容易に近づくのを遮っている感があるが、店のドアを押した瞬間、そんな予感は確かなものとなる。街道に立つ一軒家といった感の店は、外からよく見ると増改築を繰り返した二階建て。植木が生い茂って林となり、二階の物干し台には布団が干されている。入り口はバール兼食料品店。エスプレッソやグラッパもあれば、牛乳からティッシュまでうっているいわば万屋。ピンク色のスポーツ新聞「ガゼッタ・デッロ・スポルト」や地元の新聞「ラ・ナツィオーネ」が無造作に投げだされた木のテーブルが数卓置かれ、壁際に座ったままの姿勢で店を睥睨している巨漢の男性が現在のオーナー、ゴーリ三兄弟の長兄ジュリアーノである。

その昔、フィレンツェのジャーナリスト、レオナルド・ロマネッリが書いたレストラン・ガイドにはエプロン姿のジュリアーノが苦虫を噛み潰したような顔つきで、葉巻をくわえた写真が載っていた。しかもレオナルドによれば「フィレンツェっ子も忘れかけたこてこてのフィレンツェ料理の店」と書いてある。見たいけど怖い。「ダ・ブルデ」行こか戻ろか。そんな思いを抱くこと数年。ようやく根性据えて「ダ・ブルデ」の扉を押したらこのジュリアーノが目の前にいたのだから、その決心はまたしても揺らぎそうになる。しかしこのコワモテのジュリアーノ、意外に(失礼)優しい叔父貴であった。

「ダ・ブルデ」は代々男が継ぐことになっている。イタリア人にいわせれば、フィレンツェ男といえば気難しくて、尊大、傲慢。そんな悪しき伝統を今だぷんぷん漂わせているのだからピカレスク・トラットリア・ファンにはたまらない。とはいえ平日の昼にもかかわらず「ダ・ブルデ」はネクタイをした地元ビジネスマン風でほぼ満席。こんな辺鄙なところなのになぜ、と思わず首をひねりたくなるほど。フィレンツェのトラットリアは奥が深い。

エミリア・ロマーニャからフィレンツェにやってきた孤児エジツィアーノ・バルドゥッチは地元のジュリア・ゴーリと結婚、一九〇一年にフィアスケッテリアとよばれる食料品店を開店するが、間もなくこの店は店主のあだなをとって「ブルデの店=ダ・ブルデ」と呼ばれるようになる。「ブルデ」とはエミリア・ロマーニャ出身の肉屋の総称。若き日のエジツィアーノの出身地と名字をかけて、仲間は彼をブルデと呼ぶようになったという。エジツィアーノとジュリアの間には子供ができなかったので、店はジュリアの弟の子供、一九一二年生まれのトゥリッドが継ぐ。二代目ブルデと呼ばれるようになったトゥリッドの時代は受難の連続であった。戦前はファシストによる強奪と度重なる盗難、戦時中は戦火の嵐、そして一九六六年のフィレンツェ大洪水が全てを流し去る。一九八九年には火事で大半を消失するが「ダ・ブルデ」はその度に蘇ってきた。それは長い間ペレートラ地区の憩いの場として市民に愛され続け、苦難の度に復活を望む声に後押しされてきたからである。

トゥリッドの妻イレーネは料理名人として知られ、彼女の料理目当ての地元客が集まり始める。ペレートラで最初にラジオを置いたのもテレビを買ったのも「ダ・ブルデ」が最初だった。ラジオ聴きたさ、テレビ見たさに地元の人々は毎夜遅くまで「ダ・ブルデ」で過ごすようになる。洪水あろうと火事にあおうと、もはや街の日常の一部となった「ダ・ブルデ」なしのペレートラなど誰も想像できなくなっていたのである。現在店を継いでいるのは三代目ブルデことジュリアーノ、ファブリツィオ、マリオの三兄弟。さらに彼らの息子たちも「ダ・ブルデ」を手伝っている。

入り口で金縛りにあったまま立ち尽くしているとコワモテの三代目ブルデことジュリアーノが「お前さん、エスプレッソでも飲むか?」とよっこらしょとばかりに巨体を持ち上げ、みずからコーヒーを入れてくれた。意外ときさくな御仁である。店の奥は火災で焼け残った部分に増改築を繰り返してできた3部屋からなるトラットリア。店内にはアーティストである次男ファブリツィオが書いた絵やオブジェがそれこそ所狭しと飾られている。

ファブリツィオのテーマは「ピノッキオ」である。というのも原作者カルロ・コッラーディは「ダ・ブルデ」がある地元ペレートラ出身。そのペンネームから同名のトスカーナの小村コッラーディの生まれと混同されることも多いが、フィレンツェ生まれのコッラーディ育ち、そしてフィレンツェで死に、フィレンツェを見下ろす高台の墓地サン・ミニアート・アル・モンテに埋葬されている。ファブリツィアオはピノッキオ研究家でもあり店内をよく見回してみると、そんなピノッキらしき絵、オブジェ、ミニチュアがあちこちに隠れている。ピノッキオ好きな方は一度是非。

基本的に「ダ・ブルデ」にメニューは無い。その日のメニューをファブリツィオやジュリアーノ、あるいはその息子や甥たちが各テーブルを説明して回る口述筆記システムである。しかもそれらの料理はいずれも質実剛健、本質的な料理でしかも値段は今時のフィレンツェの常識からすれば驚くほど安い。例えばパスタはいずれも四ユーロだから、町中のトラットリアで食べる値段の半分、もしくは三分の一か。例えば「ダ・ブルデ」には「ラグー・スカッパート」というパスタがある。これは様々な肉をトマトソースで煮込んだのち肉を取り出し、肉汁のだしが出たトマトソースをパスタにかけて食べるもの。その名は「逃げたミートソース」という意味。哲学的かつ経済的再活用料理である。同じく「ポッロ・スカッパート」というパスタがあるが「逃げた鶏肉」という料理はご想像の通り鶏肉を使わず、野菜のみで作るスーゴ。いずれも経済的なトスカーナ家庭料理である。

もうひとつ「ダ・ブルデ」名物に「パペリーノ・アロスト」がある。パペリーノとは本来アヒルの意味だが、これは直径四十センチはある牛の太ももを真横から輪切りにし、大腿骨が中心にある牛腿肉のこと。もちろんそれが一人分という超豪快な宴会式料理ではなく、切り分けて牛腿肉のローストにしてくれる。で、なぜアヒルかというと漫画ドナルド・ダックに出てくるステーキはTボーンでなく、骨が肉の中心に描かれていたから、とファブリツィオはいう。日本にもマンモスを石斧で輪切りにして食べる漫画があったことを思い出す。今日は「フェガテッロ」という子牛のレバーを豚の網脂でくるんで焼いた料理があるという。付け合わせはラーパ、つまり菜の花の炒め物。一人前推定百五十グラムのレバーは実に食べ出がある。これをテーブルにどんとおかれた「ダ・ブルデ」印のこもわら瓶、ヴィーノ・デッラ・カーサつまりハウスワインであるトスカーナの赤を飲みつつ食べる。量が質に転換する、という例えがあるけれど、量が即、栄養に転換するのを体現できるような料理であった。これはサービス、と持ってきてくれたドルチェが「パンフォルテ」。唐辛子がぴりりと効いた甘い菓子は味覚の冒険。帰りがけにジュリアーノが「またな」と言ってくれたが、数十年通い続けてなんぼ、一筋縄では理解できない実に奥行きの深い店である。

ダ・ブルデDa Burde(フィレンツェ)
Via Pistoiese,6r FIRENZE
Tel055-311329 www.daburde.it
12:30〜14:30日曜休 昼のみの営業