サルデーニャ!14オリスターノ、トラットリア・ダ・ジーノ
サルデーニャにいわゆる高速道路はない。国道131号線が、2車線(所により3車線)の高速道路もどきだ。あとは基本的に1車線の一般道路である。どの道もだいたいきちんと舗装されているので、車での移動に別段問題はない。それどころか、公共交通機関が未発達なので、車でないと行けないところのほうが多いのが現実だ。2010年を目処にスペインから高速車両を導入してカリアリ〜サッサリ間を2時間で結ぶ鉄道計画があるが、それだって都市間の行き来だけで、田舎を行くには車しか手だてがないことには変わらない。車で旅していて、ふと気づいたのだが、目的地までの距離を示す標識が本土とは微妙に違う。普通はキロメートルで表すところを、サルデーニャではメートルを使う。例えば、20600メートルとか、いきなり現れるとちょっと戸惑う。20キロと600メートル。妙にきっちりしているけれど、どんな理由があるんだろう。 車旅で不可欠なのが道路地図だが、我々はさらにカーナビを併用する。ちょっと前までは地図だけが頼りだったのに、ほんとうに便利になったものだ。しかし、このカーナビ、時々、嘘をつく。嘘、というと語弊があるかもしれないが、画面上に示されているルートと、音声での指示が微妙に違っていたりするのだ。我々のカーナビの音声には「キアラ」という名がついているが、キアラの言うことを鵜呑みにしていて、ルートをはずれてしまったことが度々ある。だから、キアラと画面の両方を照らし合わせるようにしているが、ドライバーはいちいち画面を見ていられないから、結局キアラに従うことが多い。助手席に座っているほうが「違うよ」と指摘すると「でも、キアラがこっちに行けって」と少なからずもめることになるのだ。そういう場合には地図が役に立つ。画面上のルートと地図が大体の線ででも合っていれば、二対一でキアラの負けとなる。結局、カーナビだけで旅するのは未だちょっとリスキーだと思う。 さて、オリスターノである。サルデーニャの4つの県のうちの一つ、歴史的にも西側でもっとも重要な都市である。そもそもは岬上の都市タロスから逃げてきた人々によって築かれた町であった。タロスは、海に突き出したその立地から、紀元前11世紀頃より貿易船の寄港地となり、フェニキア人によって紀元前730年頃に都市が建造された。ローマ帝国時代にもその規模は拡大し、機能は充実していった。その様子は、今に残る住居、神殿、公衆浴場などの跡が物語っている。 時は下がって456年、ローマ帝国が終焉を迎えると次にサルデーニャにやってきたのはアフリカの蛮族であった。534年、ユスティニアヌス率いる東ローマ帝国がこの蛮族を排除し、サルデーニャはビザンチンの支配下となる。この時より、島はメレイエと呼ばれる4つの管区に分けられ、カラリス(現カリアリ)に居住するユデクスと呼ばれる統率者によって管理されることになる。 ところが、7世紀から8世紀にかけてイスラム世界が現在のスペインとフランスの一部を支配するようになり、サルデーニャへの攻撃が激化する。ユデクスは特に沿岸部の警備を強化するため、4つのメレイエそれぞれに首長を置き、政治と軍の責務を与えた。南のカラリ、北東のガッルーラ、北西のトーレス、そして中央西のアルボレア。900年には独立した4つの国となり、その首長はユディケス(ジュディチェ)と呼ばれる王であった。ちなみに、サルデーニャのシンボル、「クアットロ・モーリ」(4人の黒人)はこの4つの国を表しているとされる。が、いつどのようにして生まれたのかは諸説あり、確定していない。それぞれの国にはさらに上層の支配者がバックについていた。カラリはジェノヴァ(後にピサ)、ガッルーラはピサ、トーレスもピサ(後にリグーリアと原住民系の王の分割支配となる)、アルボレアもピサ系であった。そしてその首都は、度重なる海賊の襲撃に耐えかねてタロスを捨てた人々によって建設されたオリスターノである。アルボレアは、12世紀から15世紀初めにかけて土壌豊かな内陸の農業と広大な沼を利用した漁業によって発展し、その強い経済力を後ろ盾にアルボレアの王、特にマリアーノ9世とその娘エレオノーラの時代にはスペインのアラゴン家と手を結び、サルデーニャ全体にその影響を及ぼすまでになったのである。しかし、エレオノーラの死後、アラゴンはアルボレアへの攻撃を開始。1478年の戦いに負けたアルボレアは王の系譜を失い、そして、サルデーニャはアラゴン王フェルディナンド2世とカスティーリャの女王イザベラの結婚によって誕生したスペイン王国による支配時代を迎えるのである。 オリスターノの旧市街は意外と小さい。ここがかつてはサルデーニャの中心であったとはにわかに信じがたいくらいこぢんまりとしている。北にローマ広場、南にマンヌ広場、その間およそ600mしかない。マンヌ広場に面してかつての王の館があったというが、今その場所には刑務所があるのみ。街のメインは中央のエレオノーラ・ダルボレア広場、そしてドゥオモである。この小さな町が熱狂に沸き上がるのが、カーニバルの最後の日曜とマルテディ・グラッソ(五旬節の火曜日)に行われるサルティリアの祭りだ。今から五百年以上昔、カーニバルの時期のオリスターノは暗殺と葬式と混乱に塗れていた。仮面をつけることによって素性を消し、常日頃の恨みをはらすべく敵対する者を殺すという蛮行がまかり通っていたのである。そこで時の司祭ジョヴァンニ・デッシなる人物が、馬上競技を開催することで民衆の鬱憤ばらしを肩代わりさせようとしたのが、サルティリアの起こりである。 選ばれた騎士が、衣装に身を包み、女の顔の面をつけると、それはもう男でも女でもなく神の化身となる。飾り立てられた馬にまたがり、マンヌ広場からドゥオモ広場へと駆け出し、広場に吊るされた星(当初は輪)を剣で刺すとそのままサン・アントニオ通りからカリアリ通りへと駆け抜けていく。星をより多く刺し貫けば、その年の豊作が約束されるのだという。荒々しさではほかのどの祭りにも引けを取らないという点が、オリスターノ人の自負するところである。 サルティリアは見たことはないけれど、この街は個人的に気に入っている。旧市街の街並は派手さがないぶん落ち着くし、ドゥオモも美しい。その内部は、光が祭壇後ろから射し込んで、えも言われぬ神々しさに満たされる朝が特にいい。また、その日が月の最初の土曜日であれば、エレオノーラ・ダルボレア広場で開かれるアンティーク市が楽しめる。サルデーニャ伝統の板皿や籠、布など、本土では見られない道具類を手に入れるまたとないチャンスだ。この市で我々は栗の木から削り出した板皿を購入したことがある。45ユーロと安くなかったが、50ユーロ札を出したら、「釣りの代わりにこれを持っていけ」と何やら妙な木彫りの杯のようなものを渡された。こんなものいらない、と思ったけれど、まぁこれも旅の思い出だからと持ち帰った。その杯は今、我が家の本棚の片隅で埃を被っている。 オリスターノで気軽に美味しいものが食べたいときは、旧市街のすぐ外にある「ダ・ジーノ」へ行く。蛍光灯が妙に明るく、白いクロスに白い壁、余分な飾りもない、そして、どこか男所帯的マッチョな雰囲気が微かに漂うトラットリアである。体格のいいカメリエーレが大きな声で受け答えし、きびきび動き、まずは飲み物をさっと出してくれる。食堂というのはこうでなくてはいけない。打てば響くようなノリが、食欲をいや増すのである。料理はシンプルだけれど、味覚のスイートスポットをびしっと決めてくる。海の前菜盛り合わせは、ワゴンに並ぶ十種類くらいのマリネだのパテだのトマト煮だのの中から好きな物を選ぶ。イワシのマリネ、白身魚の南蛮漬け、タコとじゃがいもとトマトのサラダ、スズキのクリーム・パテ、小エビのオーロラソースみたいなものも試してみた。ハーブやスパイスはほとんど感じられない。素材とオリーブオイル、ヴィネガー、塩などの基本的調味料だけで、これだけ複雑な旨味が引き出せるものなのだろうか。 パスタも魚介が中心だが、ちょっと野菜っぽいものが食べたければ、アーティチョークとカラスミのフェットゥチーネなんかもいい。アーティチョークをバターでソテーしてパスタと和え、すりおろしたカラスミがふりかけてある。カラスミはオリスターノの隣町カブラスの特産物である。セコンドは魚介のグリル。カラマリとスズキを注文したら、自家製のオリーブオイルがたっぷりとかかって出てきた。黄色というよりはオレンジ色がかった不思議な色のオイルだが、香り豊かでほんの少し苦みのある後味がいい。そしてデザートはサルデーニャ名物のセアダスである。作り立てのペコリーノチーズに砂糖やレモンの皮、オリーブオイル、塩などを少量ずつ混ぜ合わせてペーストにしたものを、ラードを練り込んだパイ生地で挟んである。形は直径10cmほどの円盤型。食卓に出す直前に揚げ、熱々のところにハチミツをかけて食べる。甘味はほとんどハチミツのみ、デザートというよりは、おやつというか、小腹が空いた時に食べたいようなボリュームのある菓子である。仕上げにはもちろんミルト酒である。ミルト(ギンバイカ)の実をアルコールに漬け込んだ、甘く、少しミントのような爽やかさもあるリキュールは、食後に一杯飲むと消化を助けてくれる気がする。でも、かなり甘いので飲み過ぎると悪酔いしそうな感じもする。諸刃の剣である。

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